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コールドウェル  Eugene Wilson Caldwellflag

経歴と業績

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コールドウェル(Eugene Wilson Caldwell , 1870-1918)[5]

アメリカのミズーリ州に生まれた.17歳でKansas大学に入学,電気工学を専攻したが,1年次より物理学教授の目にとまり,在学中から水中通信の研究を行なった.1892年に卒業後はBell研究所などで電気通信,鉄道などの技術者として働いていたが,1897年,ある写真家からX線撮影装置一式を破格に安く入手して以来,X線技術にとりつかれ,自ら装置を修理したり組み立てて,医師の注文に応じて患者の撮影を行なうようになった.1898年,外科器具製造業者のFord社のパートナーとして本格的にX線装置の設計製作に携ったが,次第に医学を正式に学びたいと考えるようになり,まずはColoumbia大学の解剖学コースに学んだ.1899年,独自の液体式断続器,立体撮影用二焦点管球などを発明し,その後Bellevue Hospitalの放射線部門の設置,運用を任された.これを機会に1902年Bellevue Hospital Medical Collegeに入学,在学中に1903年にPusseyと共著で著わした教科書[1]は全2巻の大著で好評を博した.1905年に医学部を卒業,母校で教育,研究にあたった.その業績は多岐にわたり,電動傾斜撮影寝台,ポータブルX線装置,電動シャウカステンなど数々の実用的な装置を発明すると同時に,立体撮影法やX線動画の研究を行ない,1907年には現在もその名前が残る副鼻腔の撮影法 Caldwell法を発表した.1910年にニューヨーク州知事のWilliam Jay Gaynorが暴漢に襲われ,頸部に銃弾を受けた際,Caldwellは数枚のX線写真でその位置を正確に同定した.

Caldwellは単にX線装置,X線技術を開発するにとどまらず,放射線診断学のあるべき位置を早期から見据えていた点が高く評価されている.Caldwellは以下のように述べている.「X線写真(radiograph)は誰でも簡単に検査し,解釈し,評価できる絵(picture)あるいは写真(photography)であるという考え方には根深いものがあり,これが放射線医学の進歩とその正しい認識を阻む大きな障壁となっている.X線写真は絵ではないし,写真と同じ材料を使っているということを除けば写真ですらない.これは特殊な投影像(projection)であって,本質的に顕微鏡写真のようなものである.しかし残念ながら写真に非常に似ているために,素人も医療人も等しく,これを写真のように見なして,それを自ら過信して解釈することがいかに不適切で,危険ですらあるということに疑念をもたないのである」[3]

彼は1896年にX線を扱い始めた直後より左手背の皮膚の表皮脱落,潰瘍,左大腿,下腹部の毛細血管拡張などに気付いていたが,症状は次第に増悪し,痛みを伴うようになった.1907年,左手の病変が皮膚癌と診断され,切除,皮膚移植を行なった.その後も皮膚病変は再発を繰返し次第に拡大したが,精力的に研究を続けた.

愛国心に溢れた人物で,米国陸軍医療予備隊(Medical Reserve Corps)の隊員であったが,1917年に第一次世界大戦への米国参戦と同時に陸軍大尉となった.異物の局在同定を目的とする立体透視装置の研究を続け,戦地での実用実験を希望したが健康状態のため叶わなかった.1918年,完成した立体透視装置を大陸の戦地に発送した数日後,皮膚癌による全身状態の悪化で死去した[4-6].Hamburgの放射線殉職者慰霊碑にその名前が刻まれている.

米国レントゲン学会(ARRS)は,その功績を記念して1920年以来毎年の年次総会にCaldwell Lectureを設け,放射線医学および関連領域の最先端の研究者を招いており,その講演はAJR誌に掲載されている[5].

 

出典