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最初期の放射線医学

初期のX線撮影

レントゲンが報告した陰極線管によるX線発生の仕組みは,比較的簡単なものであったため,容易に装置を組み立てて追試することができた.このため発表直後から欧米各地でX線透視,X線撮影が盛んに行なわれた.その多くはボランティアの四肢や,金属アクセサリーの類であったが,まもなく臨床例の報告が相次ぐようになった.

おそらく初の臨床例と思われるのは,1月17日のウィーン内科学会でEduard Haschekらが報告した陳旧性銃弾外傷の指骨の写真である[→原著論文](図1).さらに1月24日の同学会では,手掌の金属異物(銃弾),母趾末節骨の重複奇形の報告があり,術前検査としてのX線写真の有用性が強調されている[1].

海をわたったアメリカでは,2月3日にダートマス大学のEdwin Frost(フロスト)が撮影した手の骨折の写真が初の臨床例とされる[→原著論文]. 2月13日,イギリスの外科医 John Francis Hall-Edwardsは,手掌に縫い針が刺さった女性のX線写真を撮影した.患者は2週間前に針を刺して訪れた病院では診断がつかなかったが,このX線により局在が明らかとなり,その翌日摘出に成功した.これはおそらくX線が術前検査として実際に役立った初例である[2].当時のX線装置の性能では軟部の撮影は難しかったことから,初期の臨床例の多くは骨病変と四肢の異物であるが,1896年の1年間で出版されたX線関係の論文は1000篇以上,書籍も約50冊におよび,医学界がX線に寄せた関心の大きさがうかがわれる[→関連文献] .

これに対して,日本では著しく反応が遅く,X線に関する論文発表が年間10篇にも及ばない時期が10年以上も続いた(→関連事項:日本における初期のX線研究).

 

Xray-Samples

図1. アメリカ初の臨床X線撮影.
(左図)1986年2月3日,ダートマス大学で物理学/天文学教授のEdward Frost(左)はその弟のフGilman Frost医師(右)の依頼で,左手首を骨折した14歳の少年の手を撮影した.患者の左手の上にクルックス管,下に写真乾板が置かれている.撮影時間は20分であった.撮影された写真は図4.

原著論文

《1896-初の臨床例のX線撮影》
レントゲン写真の実践応用に向けて
angio1-amputatehand

図2(左). 陳旧性指骨外傷 .
図3(右). 屍体手の血管造影.曝射時間57分.

Ein Beitrag zur praktischen Ververthung der Photographie nach Röntgen
Haschek E, Lindenthal OT. Wien Klin Wochenschr. Nr.4 (23 Januar) 63-4, 1896

レントゲンの別刷論文を受け取った物理学者Franz Exnerからこれを知った兄の生理学者Sigmund Exnerは,1896年1月10日のウィーン内科学会でその内容を紹介するとともに,講演後にウィーン医科大学のVon Neusserに適当な症例をFranz Exnerのもとに送るよう依頼した.これに応えて,Exnerの指導の下,物理学教室助手のHaschekが医師のLindenthalとともに陳旧性指骨外傷のX線撮影を行なった.これがおそらく医学的適応により撮影された初の症例と思われる(図2).さらに彼らは,解剖学教室のJulius Tandlerから供与された屍体手に造影剤を注入して血管を写し出す実験を行なっており,史上初の血管造影の試みである(図3).この2例を翌週1月17日の学会で報告するとともに,1月23日付の学会誌に投稿したのがこの論文である.

X線発見の報告からわずか2週間余で,軟部織のコントラストが得られないことを知り,血管内に現在の造影剤に相当するものを注入し,将来的に様々な組織の描出が新しい診断学を拓くことを予想した結語は先見の明に富んだものと言えよう.

Sigmund Exnerはレントゲンの友人で,1895年12月31日,ExnerのパーティーにHaschekも同席していてX線の話題に興味をもち,同僚医師のLindenthalとともに撮影を試みたとする記述もある[ARRS History of Radiology. Chap.12]

原文 和訳


《1896-アメリカ初の臨床例のX線撮影》

図4. 尺骨遠位に骨折が認められる[6]. Frostは記載していないが,橈骨にも骨折があるようにみえる.

X線の実験
Experiments on the x-rays
Frost EB. Science, New Series, 3:235-6, Feb. 14, 1896

【解説】レントゲンのX線発見直後,アメリカ東海岸のニューハンプシャー州ダートマス大学におけるX線実験(図1)の短報であるが,最後にひとこと,投稿の前日2月4日に手の骨折患者の撮影に成功したことが記載されており,これがアメリカにおける臨床X線撮影第1号とされている.論文には,この手の骨折の写真は載っていない(撮影が投稿前日なので間に合わなかったものと思われる)が,その後著者が1930年の同窓会誌[6]に当時の写真を発表している(図4).

著者Edwin B. Frostは,天文学/物理学の教授であるが,この写真は医師である弟Gilman Frostの依頼に応じて撮影したものであった.論文には詳しい記載がないが,患者は14歳の少年Edward McCarthyで,1月19日にスケート中に骨折してFrost医師の診察を受けたが,その後X線発見の報を読んだFrost医師が撮影を思いついて物理学者の兄に依頼したという[3,7].

本稿は Science誌2月14日号に掲載されたものであるが,この号にはレントゲンの初報論文の英訳が掲載されており,その後ろにこの論文をふくめ,アメリカの研究者による追試を報告する短報が3篇ならんで掲載されている.他の2編はPupin,Godspeedの論文で,いずれも追試の成功を報告している.

原文 和訳

関連文献

《1937-X線発見直後の1年間の回想記録》
1896年におけるX線
X-ray in 1896
Holland CT. The Liverpool Medico-Chirurgical Journal, 45:61-77, 1937

図5. 1896年8月12日撮影.露光時間2分.結核性骨炎.典型的な風棘の所見がみられる.

【解説】一般開業医であったがX線発見直後にたまたまX線検査に携わり,全くのゼロから手探りでX線検査を始め,その後放射線学会の要職をつとめたイギリスの放射線科医の草分けCharles Thurstan Holland (ホランド,1863-1941)が,晩年,引退後に最初の1年間の経験を述懐したエッセイである.装置の設定,調整,写真の焼き付けまですべてひとりでこなし,写真1枚焼き付けるにも半日かかり,撮影に成功しても周囲の誰ひとり異常像はもとより正常像を知らない状況で孤軍奮闘する様子が,ユーモアをまじえて描かれており,たいへん興味深い.

原文 和訳

関連事項

放射線科医の誕生

黎明期のX線技術は,医学というよりも写真術の新領域とされ,撮影に携ったのは従来の写真家(photographer)や,写真を趣味とする医師が多かった.当時の論文に頻出する radiographer という言葉は,技術者,技師,医師などすべてをふくんだ,いわばX線取扱者とでもいうべきものである.早くも1896年には欧米でRoentgen Studioが多く開業され,医師の依頼による患者の撮影のほか,一般人が持ち込む宝石などの撮影を行なっていた.しかしこと患者の撮影についていえば,医学知識を欠く技師,機器の扱いを知らない医師が行なう撮影には自から限界があった.X線をてがけた写真家,技術者の中には,これを契機として医学校に入学しなおして放射線科医となった者も少なくなく,例えば副鼻腔撮影法に名前が残るEugene Wilson Caldwellもその1人である.

初期のX線撮影は,内科医,外科医,整形外科医などの手によって行なわれ,X線所見と臨床所見の対比による知識の蓄積にはたいへん有用であった.しかし,次第に兼業が難しくなり,X線撮影は専門に扱う 放射線科医 radiologist に委ねられるようになった[8].


日本における初期のX線研究

図6. 「れんとげん投影寫眞帖」 掲載,スズメのX線写真.本邦初のX線写真集であるが,未だ医学には応用されなかった.

1896年1月,レントゲンがX線を発見すると,欧米では1週間を経ずして各地で追試が行なわれ,その月内に初の臨床例も報告された.さらにその後1年間で1,000篇以上の論文が発表され,広く臨床に供された.しかし日本の事情はこれとは全く異るもので,受容は遅々たるものであった[9-15].

日本におけるX線発見の初報は,1896年2月29日の東京醫事新誌で,3月7日には時事新報など一般紙でも報道された.当時,ドイツに留学していた物理学者の長岡半太郎は,ベルリン大学で催されたベルリン物理学会50年祭で手のX線写真を入手して論文とともに東京帝国大学理科学校の山川健次郎に郵送し[11,15],山川らは早速実験を開始した.同じくこの報に接した第一高等学校の山口鋭之,水野敏之丞らも,山川らとほぼ同時期,3月下旬にX線の発生に成功した[15].5月には水野が「れんとげん投影寫眞帖」を出版し,ここには人の手,小動物,各種物体などのX線写真16葉がおさめられている(図6).5月31日に外科医の丸茂文良も,私立医学校済生学舎(後の日本医科大学)の例会でX線実験を供覧した.10月には,京都の第三高等学校と島津製作所が協力して銀貨の撮影に成功した.このように国内各所でX線撮影が試みられているが,いずれも研究室レベルの物理実験にとどまり,医学応用には至らなかった.欧米のように爆発的な臨床応用の拡がりを欠いた主な理由は,X線管球,電源などの装置の入手が困難であったことで,初期の研究者はいずれもCrookes管を手作りするところから始め,大変な苦労を重ねている[11].

図7. 本邦におけるX線関連論文の年間発表数の推移[9].1912年,藤浪剛一の帰国後,倍増した.

日本におけるX線の医学応用の発展には日本陸軍の貢献が大きく,その中心となったのが陸軍軍医 芳賀榮次郎である[12].芳賀は,留学先のベルリンからシーメンス社製X線装置一式を私費を投じて持ち帰り,1898年11月にこれを陸軍病院に寄贈,翌年から陸軍のみならず東京帝国大学や永楽病院(後の東京大学病院小石川分院)の患者の診療に供した.同年発表した「レンチエン写真に就て」(→関連文献)は,自身のドイツでの見聞に基づく総説であるが,ドイツでの臨床応用の活況を紹介し,医学における可能性を日本の医学界に知らしめた.この時期,主に骨病変に関する散発的な症例報告があるものの,X線の物理学的解説や医学的総説を含めても発表論文数は10編前後と,少なくとも論文数からみる限り,日本のX線研究は甚だ低調な時代が10年以上続いた[9].

この状況を一変させたのが,後に慶應義塾大学医学部初代教授となる藤浪剛一である.藤浪は1909年にウィーン大学に留学し,ホルツクネヒト,キーンベックらの下で最先端の放射線医学を学んだ後,1912年に帰国して順天堂医院レントゲン科長として,日本初の放射線科を開設した.それまで,X線研究の担い手は外科,整形外科,婦人科などの臨床医であった[16].その意味で,藤浪はまさしく日本初の放射線科医であった.藤浪は帰国後ただちに放射線医学に関する論文,総説を次々と発表,数々の講演,講習会を通じて放射線医学の啓蒙活動を開始した.その効果は絶大で,その翌年から放射線関連の論文数は倍増した(図7).1914年には,日本初の放射線医学の教科書「れんとげん學」を著したが,これは放射線物理学の基礎から,装置,技術,臨床まで網羅した大著で,当時の欧米にもこれに匹敵するものは見たらない.その後1940年代半ばまで改訂,増補を重ね,放射線医学を学ぶ者の必読書となった.藤浪剛一は,1920年,慶應義塾大学医学部創立と同時に理学的診療科(後の放射線科)の初代教授となり,日本初の放射線医学講座が誕生した.

 

関連文献

《1899-ドイツのX線医学応用状況の紹介》
レンチエン寫眞に就て
芳賀榮次郎. 軍医学会雑誌 100:103-111,1899

【要旨・解説】日本陸軍の外科軍医,芳賀榮次郎(1864-1953)は1896年9月~98年5月ベルリン陸軍病院に留学中にX線の医学応用に触れ,帰国に際しては私費を投じてシーメンス社製のX線装置一式を持ち帰った.本稿はドイツでの見聞を記したものである.

冒頭は,1897年4月にベルリンで開催されたドイツ外科学会総会に参加した折の見聞を述べたもので,ハンブルクの病院では既に数万人の患者にX線を試用して,数百枚の画像を別室にて陳列し,陸軍病院の発表でも,X線は軍陣外科に必要欠くべからざるものとして,千有余枚の写真を陳列した.学会では満場一致で,X線が外科,軍陣外科に必要欠くべからざるものであるという結論に達したという.この数字には多少の疑問もあるが,ドイツでのX線の著しい普及の様子がうかがわれる.

中段は,X線の様々な臨床応用について例を挙げて述べ,適応としては異物,骨折,関節炎,胆石,膀胱結石などがあり,特に骨折整復後にX線写真を撮影してみると復位が得られていない例が驚くほど多いとしている.コレステロール胆石は写らないなどと,かなり具体的な点にも触れている.撮影時間は,当初は1時間以上が必要でその実用性に疑念があったが,技術の進歩により長くても5分,短ければ30秒で撮影できるようになったという.保険の審査においてもX線は有用で,詐病の診断に有用であるとして,既に法医学的な応用も示唆している.皮膚疾患の治療応用についても言及されている.

後段には,レントゲンの原著の内容を8項目に要約して紹介し,X線の物理学的な性質を簡潔に記している.

文中,本邦でも大学や陸軍にX線装置が備え付けられたことは喜ばしい旨述べられているが,本稿執筆時点で,国内の本格的なX線装置は芳賀が持ち帰ったものを含めおそらく数台もなかった状態で[15],数千例,数万例が報告されているドイツとの彼我の差は甚だしいものがある.そのような中にあって,本稿は日本の医学界にX線の医学の可能性を広く知らしめることに大きく貢献した論文といえる.

なお本稿は表題も含めて「レントゲン」 を「レンチエン」と表記しているが,これは g を j の音で読むベルリンの方言を,芳賀が耳に聞こえたとおりに記載したためである[17].

原文 清書版

出典