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慶應義塾と放射線医学


初代教授 藤浪剛一 2

藤浪剛一の著書

日本初の放射線科医,藤浪剛一(ふじなみこういち) (1880-1942)は,1909(明治42)年から3年間にわたりウィーン大学に留学,その後1912年に順天堂医院レントゲン科長,1920年に慶應義塾大学医学部教授(理学的診療科)として日本の放射線医学を開拓,発展に導いたが,この間に出版された著書はいずれも,まだ情報が少なかった当時の放射線医学者の必読書であった.また温泉医学,医史学に関する著作は,いまなお歴史的に重要な資料となっている.以下に,その代表的な著作を紹介する.

       藤浪剛一の著書 (単著あるいは筆頭著者,出版年順)

出版年 著 者 書 名 出版社
1912 藤浪剛⼀,織⼾正滿 ⼈類と婚姻の歴史 博⽂館
1913 藤浪剛⼀ ラヂウム療法 南山堂書店
1914 藤浪剛一 訳, Schmidt著 レントゲン療法 南山堂書店
1915 藤浪剛一,福光廉平 内臓レントゲン診断學 南山堂書店
1916 藤浪剛一,照内昇 ⿒科レントゲン學 河合商店
1918, 1943 *1 藤浪剛一 光と生物 朝香屋書店,力書房 *1
1918-20 藤浪剛一 レントゲン写真図譜 第1~4輯 朝香屋書店
1920-43 *2 藤浪剛⼀ 他 れんとげん學 南山堂書店
1924 藤浪剛一 編 レントゲン學日本文獻 日本レントゲン学会
1928 藤浪剛⼀,原邦郎 レントゲン深部放射の⼀般概念 吐鳳堂
1930 藤浪剛一 通俗養生書の現在書目録 医学書院
1931, 1944 *3 藤浪剛一 東⻄沐浴史話 人文書院
1936 藤浪剛⼀ 醫家先哲肖像集 ⼑江書院
1936 Fujinami K Hot springs in Japan 鉄道省
1937 藤浪剛一 乾々齋文庫架藏醫書目録 私版
1938 藤浪剛⼀ 温泉知識 丸善
1940 藤浪剛一 曲直瀬今大路家傳來古文書典籍 私版
1941 藤浪剛⼀ 紫外線療法 南⼭堂書店
1942 藤浪剛⼀ ⽇本衛⽣史 日新書院

   *1 初版 1918 (朝香屋書店),再版 1943 (力書房)
         *2 改訂版 1920,3版 1922,4版 1925,改訂5版 1928,増補7版 1934,改訂増補1版 1943
      1920年版は,1914年刊「レントゲン療法」の改訂版の扱い.
         *3 初版 1931,増補版 1944

放射線医学関連の著作

《1913-日本初のラジウム療法の教科書》
ラヂウム療法
藤浪剛一 (南山堂書店,1913)
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図1. ラジウムの壊変系列の説明図.

【要旨・解説】
藤浪剛一 が,順天堂医院放射線科時代に著した,ラジウムの医学応用に関する日本初の教科書である.前半の物理学篇では,キュリーによるラジウム発見の経緯からはじめて,ラジウムの物理化学的性質を概説している.現在の知識から見ても大きな間違いはなく,この時点における知見がよく要約されている.本書の出版は1913年で,Soddyによる同位元素の存在の初報も同年であるが,章末にラジウムの壊変様式がほぼ正確に図解されている点は注目に値する(原子の壊変は離散,壊変物質は沈澱物質と表現されている)(図1).エマナチオン(Emanation,現在の知識ではラドンガス)に関する記載にかなりの比重が割かれているのは,後続の治療応用を踏まえてのことと思われる.エマナチオンは「微小体」の放出であるとしているが,その気体としての性質は正しく述べられている.

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図2. ラジウムによる皮膚血管腫の治療.右は治療後.

後半の生物学篇では,ラジウムからの放射線による組織反応,治療応用について述べられている.藤浪自身はほとんど臨床経験がないようで,すべて欧州の研究者の報告の引用であるが,狼瘡(皮膚結核),皮膚癌,血管腫などに適応があること,婦人科疾患,腹部腫瘍についても,術前の腫瘍縮小効果が期待できるとしている(図2).照射法としては,ラジウムを各種の容器に入れ,適当なフィルターを使う方法が書かれている.特に,エマナチオンの治療応用について詳述されており,主にリウマチ性疾患,慢性神経炎,神経痛などが適応としている.当時欧州ではエマナチオン療法のために各種製剤,装置が市販されていたようで,これを詳しく紹介している.

藤浪が当時この治療法をどの程度実践していたかは不明であるが,ラジウムの入手が困難であった当時,臨床応用は困難であったことが推測される.実際,藤浪門下からラジウムに関する論文が初めて発表されたのは,藤浪の慶應義塾大学赴任後の1925年であった.

原文 清書版


《1914-日本初の放射線治療の教科書》
レントゲン療法
H. E. シュミット著.藤浪剛一訳 (南山堂書店,1914)
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図3. 手掌の湿疹.(左)治療前,(右)照射後.

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図4. 尋常性狼瘡(皮膚結核).(左)治療前,(右)照射後.

【要旨・解説】
ドイツの皮膚科医シュミット(Hans Erwin Schmidt, 1874-1919)著,Kompendium der Röntgen-Therapieの翻訳書である.初版の出版年は不明であるが,本書の原著第3版は1913年刊,総頁数228頁である.藤浪に寄せられた原著者序文に「比較的短期間で第3版が求められた」と書かれており,またシュミットの死後も1923年まで6版を重ねていることから,コンパクトな放射線治療の教科書として好評を博したようである.藤浪の訳者序文では「知友」「旧師」「旧友」とされており,藤浪が留学中に知遇を得た仲と思われる.

内容は,表題通り放射線治療の教科書であるが,冒頭1/3が「物理技術篇」に当てられており,陰極線,X線の物理学から説き起こし,X線管球,変圧コイル,断続器などX線装置の技術的な問題が実際の操作法を交えて詳述されている.特にX線の量,質の測定法に多くの頁が割かれている点は,当時の不安定なガス管球による照射には欠くことのできない技術であったことをうかがわせる.後半の「治療篇」の冒頭には,放射線の組織臓器への影響,妊娠への影響,放射線皮膚炎について述べられており,現在でいう放射線生物学の概観となっている.物理的圧迫や,アドレナリンの局注により組織を乏血状態にすることによる原始的な増感法も実践されている.「適応篇」では,皮膚科,内科,外科,婦人科,眼科,耳鼻咽喉科の各科別約70の疾患について,それぞれの適応,照射方法が,著者の経験および文献的考察とともに述べられている.疾患の半数以上が皮膚疾患である点は,著者が皮膚科医であることだけでなく,深部照射法がまだ確立していなかった当時のX線治療の現状を反映するものである.湿疹,白癬,毛嚢炎,梅毒,結核など良性疾患,感染症が多いが(図3, 図4),非常に良く奏効するとされている.内科疾患としては白血病,マラリア,関節炎,気管支炎などが挙げられている点も当時の状況がうかがわれるところである.悪性腫瘍については,胃癌,子宮癌が良い適応とされ,現在では放射線治療の良い適応とされる舌癌,口腔粘膜癌は転移を誘発するため禁忌とされている点は興味深い.癌腫より肉腫が良い適応とされているが,ここでいう肉腫とは,おそらくリンパ腫系の腫瘍であったことが推測される.

本書は,日本初の放射線治療の教科書であるが,藤浪はこの6年後,1920年に自著「れんとげん学」を本書の「改訂版」として出版している.「れんとげん学」はX線治療にとどまらない放射線医学全般を扱った700頁に及ぶ大著であるが,冒頭の放射線物理学,技術に多くの頁を割いている点は本書を踏襲しており,放射線治療に関する記述,挙げられている疾患とその配列も本書に準じている.なお藤浪は「れんとげん学」の序文で,この翻訳書を原著者のシュミットに郵送したが,戦時(第一次世界大戦)のため返送され,消息不明であると歎息している.

日本のX線医学黎明期にあり,X線装置もまだ普及していなかった当時,実際に本書を参照してどの程度X線治療が行われたかは疑問であるが,そのような状況下でX線治療の指針を示した本書の意義は大きかったと言えよう.

原文 清書版


《1915-日本初の放射線診断学の教科書》
内臓レントゲン診断学
藤浪剛一,福光廉平* (南山堂書店,1915)
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図5. 大動脈閉鎖不全症の胸部X線所見.

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図6. 右中葉の肺炎の胸部X線所見.

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図7. 胃潰瘍の胃造影検査所見.小彎の壁龕(ニッシェ),大彎の変形が示されている.

【要旨・解説】
藤浪はこの前年の1914年に放射線治療の教科書「レントゲン療法」を出版しているが,本書を出版する理由として序文で「前者との関連する所鮮少ならざるを信ずればなり」述べていることから,診断領域におけるその姉妹篇を意識したものと思われる.冒頭の総論では,レントゲン診断にあたっては病歴,現症を詳しく知り,臨床的所見とあわせて診断することが重要で,「レントゲン所見のみを重視せるものは,未だレントゲン診断の真義を知らざるなり」と喝破しているところには現在にも通じる見識が感じられる.

各論は心臓,肺,胃の各疾患がそれぞれほぼ同じ比重で扱われており,腸疾患(十二指腸,大腸),泌尿器疾患についてはごく簡単に書かれている.また骨関節疾患は,内科的に骨関節の診断を行う場合は比較的稀れであるとして,全く触れられていない.

図版はすべてスケッチで,実際の写真は掲載されていない.これは写真撮影よりも透視検査が重視された当時の検査法,ならびに写真撮影の画質が不充分であった当時の事情を反映している.透視法と撮影法の優劣については冒頭で触れられているが「透視検査所見は,往々写真撮影のものより結果の可良なることあり」として,臓器の運動状態も知ることができる透視検査を推奨しているが,病態に応じて透視と撮影を併用することの重要性も強調されている.

心臓の診断については,いわゆる心弓についてかなりの頁を割いて説明し,斜位像の重要性が説かれている.主に弁膜症,大動脈疾患の診断について,各病態における心弓の変形が述べられている(図5).

肺疾患については,肺炎,肋膜炎,肺結核,肺癌,縦隔腫瘍などに重点が置かれている(図6).ここでも透視検査により,斜位によって病変の局在を判断したり,癒着による動きの制限を知ることの重要性が述べられているが,淡い陰影については撮影が必要であるとして両者の併用を奨めている.所見の記載や呈示されている症例はあまり系統だったものではなく,自らの経験の例示にとどまる感がある.

胃の検査は,造影剤は蒼鉛(ビスマス)であるが,バリウムについて触れて,バリウムは濃度が低いので倍量必要であるとしている.透視下の観察による胃の蠕動運動,排出作用の評価が重視されている.また藤浪のウィーン留学中の研究テーマでもあった,錠剤を使った胃液量,胃酸度の評価など機能的診断についても述べられている.形態診断は,基本的に立位充盈像のみなので限界があるが,胃潰瘍の特徴的所見として,小彎の壁龕(へきがん,ニッシェ),大彎の陥凹が挙げられている(図7).胃癌の所見としては,充実欠損が挙げられているが,胃癌の診断学には「猶お論争の余地多し」としている.大腸の検査は経口法で,Hirschsprung病に有用とされている他は,見るべきところに乏しい.

泌尿器系については,尿路結石の診断について述べ,化学成分によって尿酸結石,リン酸結石の診断は難しいと述べ,コラルゴール(銀コロイド液)による腎盂撮影について触れている.

全体として,X線発見からわずか20年でこれだけの知見が集積されたことは特筆されるべきであるが,診断学としてはまだきわめて幼稚な段階であったといえよう.

* 共著者の福光廉平については詳細不明であるが,本書の出版年と同じ1915年に心臓の大きさの測定に関する論文を著しており[福光廉平.心臓大サノレントゲン測定ノ一新法に就きて.医理学療法雑誌1:283-30,1915],ここに「順天堂病院レントゲン科 医学士」 とされていることから,当時藤浪の門下生であったものと思われる.この論文の内容は本書にも引用されており,おそらく心臓の診断を中心に執筆したものであろう.

原文 清書版


《1918, 1943- 光線生物学の解説書》
光と生物 
藤浪剛一 (初版:南山堂書店,再版:力書房)
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図8. (左)日光のスペクトルの説明. (右)光線治療に使用する太陽燈.

【要旨・解説】
藤浪剛一は理学診療の一環として紫外線療法を初めとする光線療法も研究しているが,それに関連して光が生物に及ぼす影響について幅広く解説したものである.読者対象としては,医学研究者,医師だけでなく,広く科学に興味を持つ一般読者が念頭に置かれている.

まず光の物理学的特性,波長と色の関係,光源などについて述べ(図8),次いで植物,細菌,高等動物,そして人体に及ぼす光の影響が順次解説されている.そのほとんどが,フィンゼンを初めとする欧州の生物学者,医学者の実験結果の引用,解説で,その実験の多くは分光した光線を生物に照射してその反応を調べるものである.特に化学線と称する短波長の光線の効果が大きいことが随所に記載されている.

後半は人体の皮膚に対する光線の影響,特に日焼け,雪焼けについて詳述されており,日焼けの原因が従来言われていたように熱ではなく,紫外線の影響であることが強調されている.最後に臨床応用に言及して,色素性乾皮症,ペラグラなどについて触れ,紫外線の有害作用を避けて長波長光線を使用する赤色光線療法が痘瘡に有効であること,逆に積極的に紫外線を利用する紫外線療法が結核その他の細菌感染症に有効であると紹介している.引用されている個々の実験については,観察結果の記述にとどまって生物学的な考察には踏み込んでおらず,全体として決して質の高い内容とは言い難いが,これは当時の研究レベルを反映するものであり,当時の光線生物学の情況をうかがうことができる.

本書は1918年に初版され,その後絶版になっていたものが,1943年に再版されている.内容は基本的に同じであるが多少の改訂があり,初版の文語調の言い回しの一部が口語調に手直しされており,また十数葉の付図が追加されている.最後に,同じ慶應義塾大学医学部の生理学教授であった林髞による後書きが加えられているが,ここにあるように,改訂作業中に著者の藤浪は病没し,本書が藤浪最後の著作となった.ここに紹介したのは1943年版である.

原文 清書版


《1941- 光線療法の教科書》
紫外線療法 
藤浪剛一 (初版:南山堂書店)
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図9. 太陽灯による全身照射.佝僂病,結核が主な適応であった.

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図10. 光浴室での集団全身照射.患者は佝僂病の小児と思われる.全裸で,結膜を保護するためのアイマスクを着用している.

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図11. 手背の局所照射.皮膚疾患は良い適応であった.

【要旨・解説】
紫外線療法を包括的に解説した教科書である.光線療法の歴史,光学の知識,装置の構造から初めて,紫外線の生理学的作用,組織変化を述べ,後半では各種疾患における紫外線療法の具体的な方法,臨床的な意義について記載されている.最終章では熱線(赤外線)治療についても付言している.紫外線療法の解説書は,1928年に発行された外科医の佐藤太平による「紫外線療法」*1が既にあり,本邦初というわけではないが*2,本書はより詳細かつ,実際的な内容である.

光線治療は,古代文明の太陽浴にも見られるが,人工光源の医学利用はデンマークの医師 Niels Ryberg Finsen(1860-1904)の研究に端を発する.Finsen は,太陽光の治療効果が,そのスペクトル中の短波長域,紫外線領域にあることを見出し,光線療法の基礎を築いた.いわゆるFinsen灯は炭素アーク灯であったが,その後石英水銀灯が広く利用されるようになった.これは石英硝子管に封入した水銀蒸気のアーク放電を利用するもので,医療目的とするものは人工高山太陽灯と称されて広く普及した.これをヘルメット型の反射板の中に置いて照射した.患部に密着させて使用する場合は,水冷機構を備えたクローマイエル灯が使用された.

紫外線療法には,全身照射,局所照射があり,佝僂病,結核は,全身照射の適応であった.患者は全身裸として光源を鼠径部の高さに置き,アイマスクをして結膜を保護する(図9).光浴室,光浴場などと呼ぶ広い部屋に複数の患者を集めて大型の照射装置で照射することもあったようである(図10).とくに佝僂病は良い適応とされているが,病態生理的にも適った適応であったと思われる.この他術後の回復,健常者の健康増進にも全身照射の適応を奨めている.全身照射は,初回は仰臥位,腹臥位各3分間,計6分間で,2回目以降は毎回それぞれ1分ずつ延長して20回目には30分ずつ,60分の照射となる.局所照射の最も良い適応は,皮膚疾患,とくに尋常性狼瘡(皮膚結核)と各種の湿疹で,非常に効果が高いと述べている(図11).その作用機序は,皮膚の表皮細胞が破壊され,それに伴う炎症反応を来たして各種物質が放出されることに基本的な成因を求めている.皮膚疾患以外では,呼吸器疾患(喘息,肺炎),消化器疾患(胃潰瘍,腹膜炎),神経疾患(神経痛,頭痛)などの内科疾患にも応用し,特殊な腔内照射装置による婦人科疾患の治療などについても述べられている.特に腹膜炎に効果があるとしているが,これらの疾患への有効性は現在からみれば疑問である.紫外線の直接的な効果は皮膚のごく浅層にとどまることから,その内部臓器に対する効果は,皮膚の血管,自律神経を介しての効果と推測している.

光線療法といえば通常は紫外線療法をさすが,最終章に熱線治療について述べられている.熱線治療は白熱灯の光線に含まれる赤外線を利用する.赤外線は紫外線と異なり深達度が高く数cmに及ぶが,その基本は温熱による皮膚の充血効果で,充血により炎症物質が吸収されて鎮痛効果が得られる.特に内臓の疼痛緩和に効果があるという.内臓への効果は直接的なものではなく,皮膚の充血に伴う体制内臓反射による間接的な効果と推測している.

紫外線療法,熱線療法いずれについても,適応やその効能の記述は,ほとんどが欧州の論文や成書の引用で,具体的な成績は挙げておらず,藤浪の独自の研究に基づくものではないようであるが,当時の光線療法の状況を知ることができる資料である.

*1 佐藤太平. 紫外線療法 : 特に太陽灯療法 附・一般応用 (診断と治療社出版部, 1928).佐藤太平の経歴は不詳であるが,序文には外科医と紹介されており,東京帝大(東邦大学額田記念東邦大学資料室. https://www.toho-u.ac.jp/archives/blog/20151030_01.html),慶應大学医学部講師(加来洋子他. 京北齒科醫學校學則摘要について.日本歯科医史学会第28回(平成12年度)学術大会講演事後抄録, 2001)の記載がある.

*2 1926年に藤浪の教室員である春名英之を著者とする「紫外線療法」(東京電気株式会社,1926)が出版されているが,これはレントゲン機器メーカーで紫外線照射装置も手がけていた東京電気株式会社(後の東京芝浦電気,東芝)の宣伝用冊子のようで,冒頭に「春名英之先生著,藤浪剛一先生監修」 の記載がある.照射法を主体とする簡略な内容であった.

原文 清書版

温泉学関連の著作

《1931- 入浴と風呂の歴史》
東西沐浴史話

図12. 奈良東大寺の大湯屋.

藤浪剛一 (人文書院,1931)

【要旨・解説】 東西の入浴,風呂の歴史に関する総説である.国外については,インド,アラビア,ローマ,ギリシア,トルコ,ロシア,中国,朝鮮が扱われている.日本については,奈良時代から江戸時代末期まで,多少の不統一はあるものの概ね時代順に述べられている.

洋の東西を問わず沐浴,入浴の起源は,衛生的な側面よりも宗教的な禊(みそぎ)にあり,水で心身を清めるという点にあった.日本の入浴も,奈良時代の寺院で伽藍の一部に仏僧の沐浴の為に設けられた浴室を,貧者,病者に提供した施浴(せよく)に端を発していることが多数の例を挙げて述べられている.現在も奈良の東大寺には浴堂(大湯屋)が残っている(図12).8世紀初頭の光明皇后の施浴は有名であるが,高貴の人が貧者に施浴して徳を積むという伝説的な物語は東西に普遍的なものらしい.施浴は鎌倉時代にさらに盛んになったが,寺院を離れて現在でいう銭湯のようなものが生まれて庶民も自由に入浴できるようになり,あるいは裕福な商家などで個人的に浴室を備えるようになったのは江戸元禄期以降であった.

図13. 江戸時代の銭湯.湯女(ゆな)が浴客の背中を洗っている.左上に見える低い柘榴口の奥が浴室となっている.

江戸時代の風呂というのは現在でいうサウナ風呂のような蒸風呂で,風呂屋といえばそのような施設であり,現在のように湯に体を浸ける施設は湯屋と言われた.江戸時代末期になると次第に湯屋,あるいは両者を同時に提供する施設が増え,明治期以降は現在のような入浴様態が一般的となった.

江戸時代の風呂屋,湯屋では,男女混浴が普通で,また蒸気を逃さないために低く作られた入り口(柘榴口)の奥にある浴室はほとんど暗闇近かった.銭湯では湯女(ゆな)と呼ばれる若い女性が体を洗うサービスを行い,これも風紀を乱す一因となり,しばしば取締りの対象となった(図13).このような風潮はドイツでも同様であったらしいが,藤浪はこの7年後に出版された「温泉知識」に繰り返し書いているように,温泉,入浴は専ら医治効用を求めるべきものであるとして,享楽目的の入浴には批判的である.ただし,本書では入浴の医学的側面にはほとんど触れられていない.なお,本書の発刊は1931年であるが,1944年に増補版が出版されており,最後の3章が追加されている.ここに紹介したのは増補版である.

原文 清書版

 


《1938- 温泉の歴史から医学応用まで》
温泉知識

図14. 草津温泉の岩屋風呂.

藤浪剛一 (丸善,1938)

【要旨・解説】 理学的治療の一環として温泉医学の研究者でもあった藤浪剛一が,それまでに著した温泉学関連の論文を整理,補足した,文字通り温泉学の知識の包括的な著作である(図14).この7年前,1931年に著した前掲の「東西沐浴史話」に続くものであるが,前者は入浴,風呂の歴史に主眼を置いており内容的に重複はほとんどない.前半には国内外の温泉の歴史が述べられており,特に日本の温泉研究の草分けともいえる香川太冲(1683-1755),拓植龍州(1770-1820),蘭学者として化学の知識を駆使して泉質分析を行った宇田川榕庵(1798-1846)らについて,その事蹟が詳しく述べられている.また温泉の地名考,温泉を巡る伝説考など,トリビア的な周辺事項も紹介されている.

藤浪は,温泉は文化的にも医学的にも貴重な財産であり,国策としてこれを保護,活用することが肝要であると唱え,温泉政策の整備を強く求めている.その背景には,ここで紹介されている当時のヨーロッパ,特にドイツにおける温泉地の興隆がある.ドイツでは,バーデンバーデン,ナウハイムなど幾つかの温泉地に,温泉医学の研究所,専門医が常駐する医療施設が整備され,湯治を目的とする人々が滞在していたようで,これに範を求め,日本の温泉政策の不備を嘆き,温泉がともすれば営利目的に利用されて観光遊興の場となっていることを強く憂いている.藤浪自らの理想とする温泉郷の鳥瞰図が掲げられ(図15),温泉案内記の書き方を詳細に論じ,法学者による温泉関連法規の試案を紹介するなど,この点についてかなりの紙数が割かれている.これは,藤浪が温泉の医学的効用に大きな意義を見出していることの現れでもあるが,湯治に多くを期待せず,温泉地の賑わいは専ら物見遊山の観光客によるものである現在からみると,違和感のある所である.

図15. 藤浪が理想とする温泉郷の鳥瞰図.温泉を中心に,医療施設,研究施設,運動場などが配置されている.

後半は,温泉の科学的,医学的解説で,冒頭では温泉の生成,分布など地学的な事項,および化学的な泉質分類が述べられている.泉質分類については,含有する陽イオン(Na, Ca, Mg),陰イオン(Cl, SO4, HCO3)の組合せによって10種類以上に細分されており,現在の温泉学の分類とは異なっている.続いて,温泉治療の総論,疾患別各論が詳述されている.総論では,温泉の温度,入浴回数,泉質による適応が解説されている.入浴による生理的変化を論じ,温泉がなぜ効くかという点については,泉水中のイオンが皮膚を通過するかという問題に触れて,なお不明の点が多いとしている.また,浴用(入浴)だけでなく,内用(飲用)による治療にも大きな比重が置かれている.附録には,疾患別の推奨温泉リストが掲げられている.また江戸時代末期から大正期までの温泉関連の文献一覧が付されており,ここには医学的文献のみならず案内記,随筆など一般向けのものも含まれているが,その豊富さから当時医学的にもまた社会的にも,温泉,湯治への関心が非常に高かったことが窺われる.

現在からみるとかなり大上段に構えた印象があるが,当時の温泉医学の状況,温泉治療への期待を知ることができる貴重な資料である.

原文 清書版

 


医史学関連の著作

《1936 奈良時代から幕末まで医家の肖像と略伝》
醫家先哲肖像集
藤浪剛一 (刀江書院,1936)

図16. 日本の医学を築いた先哲の肖像画.
(上段) 田代三喜(1465-1537) 山脇東洋(1706-1762)
(下段) 杉田玄白 (1733-1817) 緒方洪庵(1810-1863)

【要旨・解説】醫家先哲肖像集は,奈良平安時代から幕末までの医家の肖像画を集成したものである.序文にあるように,医家の家に生まれた藤浪は,父が医家の肖像を飾る風に接して図像に親しみを覚えたという.このため以前から心して肖像画を収集していたが,1923年の関東大震災で多くを消失し,再び収集したものをここに纏めたものである.日本の医家には肖像を残す倣いが多かったという.藤浪は,伝記と肖像は車の両輪の如くであり,その人となりを知るには文字に書かれた伝記だけでは不足であると唱え,「その人物の影像があって,親しく之れにむかうこととなれば,また格別の感情が新たに湧き来って,真にその人に接するが如き思いあらしめる」として先人の風姿に触れることに格別の価値を見出している.

採り上げられているのは医家157名の図像165葉で,概ね年代順に配置されているが,約9割が江戸時代に活躍した諸家である(図16).必ずしも医師だけではなく,本草学者,蘭学者,通訳者なども含まれているが,いずれも直接,間接に我が国の医学の発展に寄与した人々である.各図像には,その医家の略伝が付されているが,わずか数行のものから一頁にわたるものまで様々で,また必ずしもその医家の主要な業績が記されているわけでもない.また当然のことながら,歴史的に名前が知られる医家でも,肖像が紛失した者,あるいは肖像を残さなかった者は掲載されていない.しかしそれでも,全体を通じて見ると日本の医学史の枠組みを概観することができる興味深い史料である.

なお,略伝のほとんどは,富士川游の「日本医学史」「伝記」からの抜粋あるいはそれに藤浪が手を加えたものである.図像については,藤浪所蔵の資料に加えて,末裔所蔵資料や木像などについては,日本画家の結城素明(ゆうきそめい)に模写させている[1].

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  • 1. 小曽戸洋他. 医家肖像に関する考察. 日本医史学雑誌 54:160,2008
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《1942 日本の衛生学,養生論の歴史》
日本衛生史
藤浪剛一 (日新書院,1942)

図17. 鎌倉時代の絵巻物.疫病患者のいる家の屋根から赤鬼が覗いている様子.この時代,疫病は鬼や邪気によるものと考えられていた.

図18.江戸時代の風俗を描いた図.妊婦に腹帯を巻く,帯の祝の様子.

【要旨・解説】平安時代から明治初期まで,日本の養生論,現在でいう予防医学,衛生学の歴史の概観である.当時,衛生学の歴史を説いた文献は少なく,その後の衛生学史研究の基本文献となった.

平安,鎌倉時代までの養生学は,中国からの知識の輸入によるもので修行を積んで仙人の域に達することをめざす神仙術が背景にあったという.病気は鬼や邪気によるものと信じられており(図17),今に伝わる3月の桃の節句,5月の端午の節句など今に伝わる歳時行事も,古い時代の厄払いに端を発していることが述べられている.鎌倉,室町時代以降は仏教医学の影響が強くなるが,安土桃山時代になって曲直瀬道三が李朱医学を説くにいたって,再び中国の医学が新たに導入された.江戸時代の養生学については,特に詳述されており,初期の儒医が説く孔子の教えの実践をめざす養生論に始まり,貝原益軒の養生訓に代表される日本独自の実際的な養生論が生まれる過程が解説されている.

江戸時代に入ると,特に養老,出産,育児に関する諸家の意見が多く著わされ,これらについて原典を引用してかなり詳しく述べている(図18).またこの時代,食鑑(しょくかがみ)という,様々な食品の医学的効能や食に関する衛生学的注意を述べた書が登場し,現在の健康食品に通ずる考えが既にあったことがうかがわれる.後半には,麻疹,痘瘡(天然痘),コレラの流行,症状,予防について,種痘の歴史を含めて,これも詳しく言及されている.こと伝染病については,当時の医学は無力であり,巷間に伝わるさまざな迷信,風習についても触れられている.最終章,明治時代の衛生については簡略であるが,長与専斎 が「衛生」という言葉を導入して,政府機関として衛生局が設立されたところまでが述べられている.

原文 清書版