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ソーンズ  Frank Mason Sones, Jr.

経歴と業績

ソーンズ (Frank Mason Sones, Jr., 1918-85)[1]

1943年,メリーランド大学医学部を卒業,内科,小児心臓病学を研修した.当時は心腔造影の発達とともに,先天性心疾患の手術が行われるようになった時代であった.1950年,Cleveland Clinicで心臓検査室の創設にあたって小児心臓病部門および心臓血管検査部門の責任者として招かれ赴任し,以後生涯をここで過ごすことになった.初期から冠動脈造影に関心をもっていたが,当時,冠動脈の選択的造影は心室性不整脈を来たすとして禁忌とされていた.1958年,Sonesは弁膜症患者の造影検査で,大動脈起始部においたカテーテルが跳ねて,はからずも右冠動脈に大量の造影剤が流入した症例を経験し,予想外に副作用がなかったことから選択的冠動脈造影が可能と考えて研究を重ね,1962年に1020例の症例についてその有用性を報告した* [→原著論文].当時,心筋虚血に対して内胸動脈グラフト,大伏在静脈グラフトが試みられていたが,Sonesは冠動脈造影でこれらの手術法の有用性を証明した[1,2].

* 当時同じ施設で仕事をしていたAlbert Bruschkeによると, 第1例の成功から論文発表まで4年を要した理由は,Sonesが慎重を期して症例を蓄積したこと,著しく多忙であったことに加え,dyslexiaの傾向があり文章の読み書きに困難があったためだという[4].Sonesは,人と話すことをおおいに好んだが,医学文献をほとんど読まず,同僚との会話で最新知識を保ち,それ以上に文章を書くことを嫌って論文の多くは共著者の手になるものであったという[1].

1967年,オレゴン大学の Judkins がSeldinger法による経皮経大腿動脈法による冠動脈造影を開発し,100例目を成功させた時点でSonesに実際の手技をみせようと招待したが,Sonesは600例になったら行くと返答した.実際に600例になってから訪問したSonesは,Judkinsの方法に感銘を受けたものの,2本のカテーテルを必要とし,カットフィルムを使用するJudkinsの方法よりも,上腕動脈をカットダウンして1本のカテーテルで,X線透視下に診断する自分の方法の方が良いと考えたという[2].

昼夜を分かたず臨床,研究に没頭し,深更まで読影報告書を口述し,撮影台の上で寝ることもあったという[3].Sonesは単に冠動脈造影の手技を発明しただけでなく,X線透視など撮影装置の改良,C-arm装置の開発など心臓造影検査技術全般の発展に尽力した.また心血管造影検査法の標準化,安全性の確立,教育など,現在でいう品質管理を確立して心臓検査の普及に大きく貢献した.1976年,米国心臓病学会(AHA)でもこのような提案を行ったが周囲の反応は鈍く,1977年にJudkinsらとともに心血管造影学会(Society of Cardiac Angiography)を創設しその初代会長をつとめた.

1981年に肺癌と診断された後も診療,研究を続けたが,1983年に引退,奇しくも共に冠動脈造影を創始したJudkinsと同じ1985年に肺癌で死去した.RSNA Gold Medal (1979),Albert Lasker Award (1983)など多くの賞を受賞している[1-3].

出典