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ジャドキンス  Melvin Paul Judkins

経歴と業績

ジャドキンス (Melvin Paul Judkins, 1922-85) [2]

Los Angeles近郊の田舎町に生まれた.子供の頃から機械いじりや電気工作が大好きだった.新聞配達,工事現場,トラック運転手などをして学費を稼ぎ1945年,College of Medical Evangelists (後の Loma Linda University)を卒業,泌尿器科医となった.戦後の一時期,日本の進駐軍に派遣され大阪の米軍病院に勤務したこともある.帰国後はカナダ国境の田舎町ワシントン州Sumasで開業医となったが,1946年に結婚した看護婦の妻との単独開業は激務であったため,カリフォルニアに戻りもう1人の内科医と共同で医院を経営した.しかし多忙であることに変わりはなかった.一念発起して放射線科医を志し,Mayo Clinicのレジデントに応募したが,40歳の年齢を理由に断わられた.1961年,オレゴン大学の放射線科のレジデントとなり,既に血管造影で高名であったCharles Dotter の下で学び,共同で経皮的末梢動脈血管形成術を開発,1964年の共著論文は画期的な論文となった.

当時オレゴン大学では冠動脈造影ができなかったため,Cleveland Clinicの Sones の下を訪れ,さらに1965年にはスウェーデン Lund大学に学んだ後,オレゴン大学に戻って准教授として新設なった血管造影検査室の責任者となった.ここで経皮的経大腿動脈アプローチによる選択的冠動脈造影の研究を開始し,左右の冠動脈に適合する新しい成型カテーテルを完成,1967年に発表した.1968年にはCordis社がこのJudkinsカテーテルの市販を開始し,Judkins法は急速に普及することになった.Judkinsはこの他にもPig-tail型カテーテル,脳血管用,腹部血管用カテーテル,J型ガイドワイヤなど多くも開発したが,特許をとることなく,経済的利益を求めることは決してなかった.1969年には心血管放射線部門の教授となったが,1970年に乞われてLoma Linda大学の心血管検査室の責任者となった.1977年には,Sonesらとともに心血管造影学会(Society of Cardiac Angiography)を創設し,Sonesに続いて第2代会長をつとめた.1978年に脳卒中の発作に見舞われてからは臨床を離れたが,夫人の献身を得てなお論文を発表し続け,公職もつとめた.奇しくも共に冠動脈造影を創始したSonesと同じ1985年に死去した.

出典