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ドッター  Charles Theodore Dotterflag

経歴と業績

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ドッター(Charles Theodore Dotter, 1920-1985) [2]

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ドッター好んで人に見せたスケッチ.「私が思っている好きなトレードマークは,数年前に描いたパイプとレンチを組み合わせたたものである.もちろん単純化し過ぎだが,配管工が鉛管にやれることなら,我々は血管に同じ事がやれるということを表わしている」[3] .

1920年,アメリカのボストンに生まれた.学業優秀,高校では飛び級した.子供の頃から機械いじりが好きで,新しい機械をみると分解しては,何か別の利用法を考えるのが常であった.コーネル医科大学を卒業,ニューヨークで放射線科の研修後,1950年からは母校のスタッフに迎えられたが2年後,32歳にしてオレゴン医科大学の放射線科教授に迎えられ,その後生涯この地位にあった[1,2].1950年から1960年代初期にかけて,すでに主に血管造影に関連する100編以上の研究論文を著わしている.既に1963年の屍体の冠動脈造影の論文で,血管閉塞を非手術的に除去するアイデアを提案しており,その後テフロンカテーテル,ガイドワイヤの研究を開始しすべて手作りしていたが,同年RSNA会場でのCook社創業直後のクック(William Cook)との出会いが契機となってこれが製品化された[2,3].

1964年1月,左下肢動脈閉塞による足趾壊死の82歳女性患者に,このカテーテルを使用して治療を試み,わずか数分の手技で血流が回復,症状もただちに消失した.これが世界初のカテーテル治療である.以後,ダブルルーメンカテーテル,フローガイドカテーテル,異物回収カテーテルの開発,消化管出血の塞栓術,ストレプトキナーゼ,液体塞栓物質(NBCA)のカテーテル投与など数々の新しい技術を臨床に応用しており,ステントの概念を始めて提案したのもDotterであった.まさにIVRの父と呼ばれるに相応しい業績である.次々と打ち出す新しいアイデアは,即座には周囲には受入れられず批判を浴びることも多かったが,決して屈しなかった.

1967年,腋窩リンパ節腫大に気付き,1969年にHodgkin病と診断された.放射線治療でいったんは回復したが,1976年に再発して2回目の放射線治療を受け,1979年には狭心症に対して冠動脈4枝バイパス術を受けた.しかし大病を繰返しながらも,仕事を精力的に続けるとともに,趣味の登山,ロッククライミングを楽しみ,1970年にはガイドなしでマッターホルン登頂に成功,アメリカの14,000フィート以上の名山67への登頂も果たした.絵画やクラシック音楽にも深い関心をもつ教養人でもあった.1985年に死去したが,奇しくもこの年には,IVRの先駆者,Grüntzig, Judkins, Sonesも没している[1-3].

出典