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グリュンツィヒ Andreas Roland Grüntzigflag

経歴と業績

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グリュンツィヒ (Andreas Roland Grüntzig, 1935-85) [3]

1935年,ドイツのドレスデンに生まれた.幼くして父が戦死,戦後は学校教師であった母に東ドイツのライプツィヒで育てられた.1957年,西側のハイデルベルクにわたり,奨学金を得てハイデルベルク大学医学部に学んだ.卒業後は,スイスのチューリッヒ大学血管部門のDr. Bolligerの下に学んだが,1971年,ドイツの放射線科医Eberhart Zeitlerを訪問した際,アメリカのDotterのカテーテルによる再疎通術を知り,その欠点を改良すべくバルーンカテーテルのアイデアを着想した.スイスに戻り,助手のMaria Shlumpf夫妻,妻のMichaelaらとともに自宅のキッチンテーブルの上で試行錯誤を繰返し,初めはシングルルーメン,その後ダブルルーメンのバルーンカテーテルを製作した.

1976年,米国心臓学会(AHA)で動物実験およびヒトの下肢動脈のバルーン血管拡張術を発表し,冠動脈への応用の可能性を示唆したが,心臓外科医の多くは懐疑的で,あまり良い反応は得られなかった.しかし翌1977年9月の同学会で,冠動脈治療に成功した臨床例を発表した際には,発表の途中で会場から拍手が起こったという.

この業績はスイス,ドイツではあまり評価されなかったが,1980年,米国Emory大学に招かれた行なったライブデモを含む教育コースが大好評であったことをきっかけに,米国にわたって同大学教授の地位につき,寝食をけずって研究に打込み,冠動脈再建術の臨床,研究をリードした[1-3].

新しいアイデアを突然のように打ち出して外科医と対立することが多かった Charles Dotterと異なり,Grüntzigは慎重な根回しをして臨床家の信頼を得るとともに,自らの仕事が "Dottering" に基づいていることを明言してDotterのクレジットを尊重した.Grüntzigの努力が,何かと批判を浴びがちなDotterの名声を支えた面があった[4]. 

1976年以降,Grüntzigの開発したカテーテルは Cook社 がライセンス契約のもとに製造,販売し,Grüntzigは経済的にも大きな利益を得た.アトランタに豪邸をかまえて華やかな私生活を送り,高級車を乗り回し,自家用飛行機をもつ生活であったが,1985年,翌日に予約患者の診療を控え,ハリケーンの余波で視界不良の中を自家用機で休暇先の別荘からの帰途,墜落事故で死亡した.

出典