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島津源蔵 (しまづ げんぞう)flag-japan

経歴と業績

島津源蔵(二代目, 1869-1951).島津製作所を創設.日本初のX線装置を製作.X線技術の普及,教育に尽力した.[2]

父の島津源蔵(一代目, 1839-94)は,京都市内に祖父清兵衛が営む仏具店の職人であった.当時明治政府は西洋の科学知識の教育,研究を目的として大阪と京都に舎密局(せいみきょく)*1を設けたが,京都舎密局は源蔵の仏具店と同じ木屋町にあり,源蔵は金属加工職人としてここに出入りし,理化学機器の修理,整備を請け負ううちに科学知識を学び,科学立国の必要性を痛感するようになった.そこで1875年に教育用理化学機器を製造する島津製作所を創業,1877年の第1回勧業博覧会には医療用ブジーを出展して表彰され,また同年12月には日本初の有人気球を36mの高さまで揚げることに成功して,全国にその名を知られるようになった.翌1878年の第2回勧業博覧会に出展した蒸留装置も受賞した.1882年のカタログ「理化器械目録表」には110点が掲載されている.1894年に病没すると,25歳の長男梅治郎が二代目源蔵を襲名し,島津製作所の後継者となった[1,2].

二代目源蔵は,小学校に2年間通学しただけで,それ以前から家業を手伝っていた.1884年,弱冠15歳にしてウィムズハースト式静電発電機(Wimushurst machine)を外国文献の図面だけを頼りに自作して,京都勧業博覧会に出展,受賞している.父の死後家業をついだ源蔵は,教育用人体模型,鳥類標本などの製造販売を手始めに,様々な理化学機器を開発した.1906年のカタログには,物理器械2,373点,化学器械696点が収載されている.

1896年,第三高等学校(京都大学の前身)教授の村岡範為馳(むらおかはんいち, 1853-1929)は,日本初のX線撮影実験を行うにあたって島津源蔵の技術協力を求め,これに成功した.源蔵はこれを機にX線装置の開発研究を開始し,翌1897年に教育用X線装置を開発した.当時,国内の線装置はすべてドイツからの輸入品であったが,1909年に蓄電池を用いた日本初の医療用X線装置を完成させ,国府台陸軍衛戌病院(現国立国際医療センター)に納入,1911年には交流電源を用いた大型医療用X線装置を日本赤十字大津病院に納入した.以後,島津製作所は黎明期のX線技術の発展を支え,1921~41年には毎年「X線講習会」を開催(その後日本医学放射線学会が継承),1927年に「島津レントゲン技術講習所」(現 京都医療科学大学)を設けるなどして,X線技術の普及,教育にも大きく貢献した.

島津源蔵はその生涯に178件の特許を取得し,日本のエジソンとも称される発明家でその功績は多岐にわたるが,特に重要なものは蓄電池の開発である.1897年に京都帝国大学の依頼で,当時もっぱら輸入に頼っていた鉛蓄電池を日本で初めて製作した.1908年に「GS蓄電池」 の販売を開始し(GSはGenzo Shimazuから),1917年に日本電池株式会社(現 GSユアサ)を創立した.1930年,島津源蔵は日本の十大発明家*2 の一人に選ばれたが,選奨理由は蓄電池を製造する上で要となる微細な鉛粉製造法,画期的な「易反応性鉛粉製造法」発明の功績であった.この技術を応用した防錆剤の開発は,大日本塗料株式会社の創立につながった[1,2].

*1 舎密(せいみ)は,オランダ語で化学を意味する chemie (ヘミー) の当て字.

*2 この他,鈴木梅太郎(ビタミンB1の発見,製造),御木本幸吉(真珠養殖法の発明)らが選ばれている.

出典