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アンプラッツ  Kurt Anton Amplatz

経歴と業績

アンプラッツ (Melvin Anton Amplatz, 1924-2019) [2]

オーストリアに生まれた.父は開業医であった.子供の頃から,化学実験や機械いじりが好きな少年であったという[1]. 1950年,インスブルック大学医学部を卒業,国内でインターン修了後,1952年に渡米,1953年にデトロイトのWayne州立大学で放射線科のレジデント,1957年にミネソタ大学心臓カテーテル部門のスタッフとなった.1970年には教授となり,1999年の退任まで生涯をここで過ごした.

当時ミネソタ大学は開心手術が盛んで,Amplatzは心血管系造影検査のデバイスを次々と考案した.最初に手がけたのは,造影剤のインジェクターで,炭酸ガスカートリッジでピストンを駆動するものであった.1967年に発表した冠動脈造影カテーテル は現在も使用されている.しかしAmplatzの最大の業績は,息子の生物学者Curtisと共同で開発した心房中隔欠損の閉鎖デバイス,Amplatzer Septal Occluder (ASO)であった.それまでも各種デバイスが試みられていたが,ASOは手技が容易かつ確実な結果が得られることから,1997年の発表後[2],急速に普及し,最も多い先天性心疾患のひとつである心房中隔欠損が開心手術なしに完治できるようになった[3].AmplatzはASOの製造販売をてがけるAGA Medical社を設立した*.AGA社は,その後共同経営者間の内紛を経て St. Jude Medical社に買収されたが[4],2014年にAmplatzは新たにKA Medical社を起業した.

* 共同経営者の名前,Amplatz,Gougeon,Afremovから.Gougeonは義理の息子であった.

Amplatzは,血管内治療デバイスに関する100件近い特許を所有する発明家,ビジネスマンとしての側面と同時に,患者の治療のためには努力を惜しまない臨床医,熱心な教育者であり,論文の添削指導では隅々まで朱をいれ,原稿が真っ赤になったという.公の場に出て名声を求めることは好まなかった[5].2019年,その生涯を過ごしたミネソタ大学病院で死去した.

出典