- ラジウム禍
- ウラン鉱労働者と肺癌
- 原著論文
- 1950 ウラン鉱山における放射能と肺癌の因果関係
- ラジウム含有夜光塗料による顎骨壊死
- 原著論文
- 1925 夜光塗料中のラジウムが顎骨壊死の原因であることを指摘
- ラドン・ラジウム内用療法
- 原著論文
- 1913 ラジウム内用療法の効果を「証明」した論文
- 1929 米国医師会のラジウム内用療法否定声明
- 関連文献
- 1933年におけるラジウム中毒の概観
- 関連事項
- ラドンの健康影響
- ラジウム水 Radithor事件
- 関連文献
- 1933 ラジウム水の犠牲者 Eben Byersの剖検報告
- 1932 インチキラジウム水療法の内幕
ラジウム禍
ウラン鉱労働者と肺癌
チェコの北西部ボヘミア州とドイツ南東部のザクセン州はエルツ山地を国境として接しており,いずれも古くから鉱山が多いところで16世紀初頭から主に銀山として栄えた(図1).ほどなく銀が枯渇すると,ニッケル,ビスマスなども採掘されたが,19世紀以降は主にウラン鉱となった.ウランはガラスに微量混ぜることにより美しい黄緑色に発色し,蛍光も発することから,放射線や放射能が知られるようになる以前から,いわゆるウランガラスの着色剤として広い需要があった.ウラン鉱石はウラン以外にもいくつかの放射性物質を含むことがその後明らかとなり,Marie Curieがポロニウム,ラジウムを発見したのもこのヨアヒムスタールのウラン鉱石(ピッチブレンド)であった(図2).
チェコ側のヨアヒムスタール(Joachimsthal,現Jáchymov ヤーヒモフ),ドイツ側のシュネーベルク(Schneeberg)の鉱夫には古くから肺疾患が多発することが知られており,Bergkrankheit (「山の病」 の意)などと呼ばれていた[1].1920年代になり,ラジウムによる発がん性が知られると,当然のことながらその関連性が疑われるようになった.
1930年,チェコスロバキアのSiklは1929~30年に死亡したヨアヒムスタールの鉱夫の死因に肺癌が多いことを報告した[2].これはこれに先だってSaupeらがシュネーベルクの鉱夫について調査した結果[3]とも一致したが,塵肺や肺結核との合併もあり,原因を特定するにはいたらなかった.しかし1932年の続報では,ラジウムの放射能が最も疑わしいとしている[4].その後1933~38年の死亡例について報告した第2報[→原著論文]でも,ほぼ同程度の肺癌発生率が確認され,珪肺や肺結核の合併があるものの,総合的に判断してやはり放射能が肺癌の原因とするに十分な理由があると結論している.
その後,現在にいたるまでいくつかの大規模コホート研究で,ウラン鉱山における肺癌のリスク増が確認され,その成因がラドンの吸入(→関連事項)にあることが明らかとなっている[5,6]. ラドンは鉱山以外でも大気中に広く分布しており,自然放射線被曝の原因として最も大きなものであり,現在では喫煙に次ぐ肺癌のリスクとして認識されている.
原著論文
【要旨・解説】チェコスロバキアの内科医Siklがヤヒーモフ(ヨアヒムスタール)のウラン鉱夫の剖検をもとに,その死因に肺癌が異常に多いこと,その原因としてウラン鉱山に特有の放射能が強く疑われることを明記した報告である.
ヤヒーモフやその近郊のシュネーベルクのウラン鉱山の鉱夫には,古くから原因不明の肺疾患による死亡が多いことが知られていた.Siklは,1929~1930年に死亡した鉱夫19例中13例を剖検し,9例(47%)を肺癌と診断した.本稿はこれに続く報告で,1933~38年に死亡した52例の剖検の結果,肺癌19(38%),その他の悪性腫瘍2,珪肺/結核23,自殺2,事故2,その他3と診断され,両者シリーズ合わせて死因の約40%が肺癌である.
肺癌の成因として,粉塵中のヒ素,コバルトなどの発癌物質,合併症として多く見られる珪肺や結核,この地方に多い近親婚,鉱夫全般にみられる低栄養などの要因も否定できないとしつつ,やはりウラン鉱に特有のラジウムの放射能,ラジウムから発生するラドンの吸引が強く疑われると述べている.他国のウラン鉱山でも同様の事例があるかについてはこの時点で不明と加えられているが,その後カナダ,アメリカ,ドイツなど複数の鉱山を対象に同様の研究が行なわれ,本稿の結論が正しかったことが証明されている.
なお,本稿は研究終了から12年を経た1950年に発表されている.発表が遅れた理由は,冒頭にあるように研究直後の1938年,ヤヒーモフが位置するチェコスロバキアのズデーテン地方がナチスドイツに併合され,さらに翌年にはチェコスロバキアが解体されるという政治的背景によるもので,終戦後の混乱期を経てようやく発表されたものである.
ラジウム含有夜光塗料による顎骨壊死
ある種の物質に光に当てるとエネルギーを蓄積してしばらくの間発光する燐光現象(phosphorescence)は19世紀から知られていた.とくにストロンチウム化合物を利用した夜光塗料は1870年代に流行して,壁紙や看板などに利用されたが,燐光は次第に弱くなって約4時間で再び光を当てる必要があった.20世紀初頭になると,硫化亜鉛(ZnS)に微量のラジウムを混ぜることにより,ラジウムが放出するα線のため光を当てなくても長時間発光することがわかり,夜光塗料として時計の文字盤などに使われるようになった.1914年に第一次世界大戦が勃発すると,夜間戦に使う夜光時計,計器などが増産され,1919年までにアメリカ内だけでも250万個以上の夜光時計が作られ,戦後はドアノブ,キーホール,壁のスイッチ,玄関の住居表示などにも広く利用された.特にアメリカのニュージャージー州を中心に工場が林立し,大量の若い女性が雇われ,広い工場内で時計の文字盤に塗料を塗る作業に従事した(図3).彼女らはダイアルペインター(dialpainter)と呼ばれ,比較的高給であったことから人気の職業で,1925年にはアメリカ国内の120の工場で,2,000人の女性が働いていた[8](図3).
しかし1922年頃より,このような女性従業員に顎骨壊死,顎骨腫瘍が多発することに気付かれ(図4),調査,研究の結果ラジウムとの関連が強く疑われた[→原著論文].顎骨病変が発生した原因は,ラジウムを含む夜光塗料を文字盤に塗る際,細い筆の先を口にくわえて形を整える作業習慣があり,このために嚥下されたラジウムが消化管粘膜から吸収されて,全身骨,特に骨代謝回転が早い顎骨に集積して骨髄炎,骨肉腫の原因となったものと考えられた.1929年,これを踏まえた作業環境勧告が出され[9],特に筆を口で加える習慣を廃した結果,その後顎骨症の発生はほとんどなくなった.
1928年,6人の被害女性が補償を求めて同社を訴え,彼女たちはラジウムガールズ(radium girls)と呼ばれて広く報道された.結果的には補償金,年金などを支払うことで示談となったが,これは世界初の労働災害訴訟で,医学的のみならず社会的,法律的にも大きな意義を持つものであった.
原著論文
【要旨・解説】夜光塗料の最大手業者のひとつで,有名ブランド UNDARK(図5) を製造販売する The United States Radium Corporationが(図5),1922年頃から時計の文字盤に夜光塗料を塗る女性作業員,ダイアルペインター (dialpainters) に顎骨壊死が多発していることに気づき,ハーバード大学公衆衛生学部に依頼した調査の結果の報告論文である.5例の顎骨壊死の患者について調査すると同時に,可能性のある原因物質を化学的,疫学的に検討している.
5例の症例は,いずれも顎骨壊死で3例は死亡,いずれも通常の感染性骨髄炎と異なり慢性進行性で,破壊性の強い病変であった.可能性のある原因物質としては,夜光塗料に含まれる硫化亜鉛,銅,ラジウムを検討し,中でもラジウムが疑わしいとしている.その理由として,化学的性質がカルシウムに類似するラジウムが骨に好んで沈着することは既知の事実で,ラジウムによる口腔腫瘍治療に際して類似の症例が報告されていることが挙げられている.
作業員からの聞き取り調査,工場内の作業環境の視察を行ない,作業員の衣服や体や工場内各所から集めた粉塵が暗やみで発光することから,工場全体が汚染されていることが明らかとなった.さらに,従業員に歯科用フィルムを携帯させると2~3日で感光し,従業員の血液検査では全例に放射線曝露を示唆する異常値が認められた.ラジウムの吸収経路としては,作業者は夜光塗料を塗る筆先を口で整える習慣があり,嚥下されたラジウムが消化管から吸収されると考えられた.
以上の事から,顎骨壊死はラジウムを含む夜光塗料の塗布作業に起因する可能性がきわめて高いと結論し,予防策を講じるよう勧告している.しかしこの報告を受けた会社はこれを不満として,この直後に別の調査を依頼しており,その報告はラジウムとの関係を否定し,梅毒性骨髄炎の可能性を示唆するものであったが[12],その後の数々の調査でラジウムと顎骨病変の因果関係は決定的なものとなった[13,14].
ラドン・ラジウム内用療法
ラジウムは1900年初頭から,初期は皮膚に貼付して,その後はアプリケータを使うなどして外照射の形で皮膚疾患や腫瘍の治療に用いられたが,これ以外にラジウムから放出される放射性気体であるラドン(ラジウムエマネーション*)の吸入,ラドンやラジウム水溶液の飲用あるいは静注などの内用療法が広く行なれるようになった.
*エマネーション(Emanation) は,放射性物質の壊変過程で放出される放射性稀ガス元素で,現在の知識でいえばラドン(主に220Rn,222Rn)である.トリウムやラジウム周囲の空気が放射性を持つことは,Marie Curieがこれらの物質を分離した初期から知られていたが,その後Rutherfordは,これらが稀ガス元素であることをつきとめエマネーションと名づけた.当時は新しい元素と考えられトリウムエマネーションはトロン,ラジウムエマネーションはラドンと命名された.その後同位体の知識が確立し,いずれもラドンの同位体であることが明らかとなった.
ヨーロッパでは古くから民間療法として温泉治療があり,入浴するだけでなく温泉水の飲用も有効とされていた(図6).1900年初頭,一部の温泉水のラドン,ラジウムが含まれることがわかってその効用が放射能にあるものと推測され[16],ラドンの吸入,ラドン水の飲用が賞揚されるようになり,これがラドンの内用療法へと発展した.1913年にRowntreeらは当時の内用療法の文献をレビューし,関節炎,リウマチなど全身の疾患に対する有効率は80%以上としている[→原著論文].ラドンは半減期が短いことから,持続性のある親核種ラジウムの飲用,静注も行なわれるようになった.
1929年,米国医師会がラジウム水,ラドン水の飲用,静注はその効果に明確な根拠を欠くとして,正式な治療として認めないという声明を発表し[→原著論文],医者の処方としてのラジウム内用療法は速やかに姿を消した.しかし当時は巷でも「万病に効くラジウム水」「虫歯にならないラジウム入り歯磨き」「お肌によいラジウム入り化粧クリーム」「健康に良いラジウムチョコレート」などが市販されて人気を博していた(図7).効果のほどはともかく,逆にその程度の被曝量であれば少なくとも明らかな有害作用は無かったようで,これらの民間治療が直接的な被害をもたらしたという例は聞かれなかった.しかし1932年にアメリカの名士Eben Byersがラジウム水「レディソール」(Radithor)を大量に服用して死亡する事件が大々的に報じられ[→関連事項],また医学界でも問題となった[→原著論文].またこれと前後して世間を騒がせた前掲の ラジウムガールズ事件が人々をしてラジウムへの不信感,恐怖感を抱かせるに至り,1930年代にはラジウムの内用療法は急速に消滅への道を辿った.
原著論文
【要旨・解説】1913年の時点でラジウムエマナチオン,すなわち放射性ラドンガスの生体への効果を文献的レビューしたものである.投与方法は入浴,皮下注,筋注,飲用,吸入などで,対象疾患としては関節炎,リウマチ,神経痛が多いが,呼吸器疾患(気管支炎,喘息など),循環器疾患(心筋炎など),神経疾患(頭痛,脳卒中,脊髄癆)などについても検討されている.総じていずれの疾患にも有効で,1038例のうち837例,80%に改善が見られた.
著者自身は,自験例18例のうち確実な改善があったのは3例のみで,さらに慎重な検討が必要であるとしている.しかし,このような研究を背景として,ラドン,ラジウムの内用療法は1910年から20年代にかけて,正式な医療としても民間医療としても広く行なわれた.
【要旨・解説】1920年代,ラジウム水,ラドン水の飲用,静注が,関節炎,神経痛などに効くとされ,医師,一般向けに製剤やその製造装置が市販されていた(図8).
米国医師会(AMA)はその機関誌JAMAに,New and Non-official Remediesという欄を設けて,有効性が医学的には証明されていないが有望と思われる治療法を定期的に紹介しているが,1920年にラジウム水を,1923年にはラジウムエマネーションを掲載している.しかしその多くがラジウム含有量が非常に少ない詐欺まがいの商法であったり,ラジウムが含まれていたとしても約10年を経て科学的なエビデンスを証明する論文がないことから,1929年,これを医師が治療に供することを認めないとする声明を発表した.本稿はこれを解説した論説記事である.
この頃すでに,夜光時計塗料による ラジウムガールズ事件が社会問題化しており,3年後には Eben Beyersの死亡事件も発生し,これ以後ラジウム内用療法は急速に下火となった.
関連文献
【要旨・解説】1920年代,ラジウムは新たな癌の治療法として注目されるだけでなく,飲用,吸入などの形で内用療法としての効果が称揚され,また夜光塗料として利用されて医学以外の面でも社会に広く浸透する存在となっていた.当時,その危険性については一部の専門家は多少なりとも承知していたが,あまり顧みられることのない時代であった.しかし1922年頃から,夜光塗料作業者,いわゆるダイアルペインターに謎の顎骨病変が発生するようになり,1925年にはラジウムとの因果関係が指摘され,1928には「ラジウムガールズ」 の訴訟が報道された.ラジウム内用療法は,ほとんど実際的な効果がなかった反面,大きな事故もなく10年以上が過ぎたものの,1932年にアメリカの資産家Eben Byersが顎骨腫瘍で死亡するにいたって,にわかに社会問題となった.
本稿はこのような時代,1933年の時点で,これらのラジウム禍の発生状況を振り返り,ラジウム障害について物理学的,医学的に記述したものである.著者のEvansは物理学者であるが,医学的な記載についても非常に正確である.ラジウムの摂取経路は経口,経静脈,吸入があり,大部分は便,尿から排泄されるが,骨,骨髄,肝脾などに沈着したものは長期にわたり排泄されない.症状としては,顎骨壊死,骨壊死,骨肉腫,貧血などを挙げ,治療法としては,現状ではカルシウムの投与による治療法が唯一であるとしている.
関連事項
ラドンの健康影響
・大気中のラドン
ウラン鉱石には多くの種類があるが,最も代表的なものは酸化ウラン(UO2)を主成分とする閃ウラン鉱と,その非晶質型の瀝青ウラン鉱(ピッチブレンド)である.ウラン鉱石に含まれるウラン(天然ウラン)は,99.3%が 238U,0.7%が 235Uである(→劣化ウラン). 238Uはきわめて緩徐に壊変して226Raを形成するので(半減期44億年),ウラン鉱石には必ずラジウムが含まれる.Marie Curieのラジウム発見も,ウラン鉱石の放射能がウランだけでは説明できないほど強力であることに気付いたためである.ラジウム 226Raはα壊変してラドン 222Rnを生成する(半減期1,620年).ラドンは常温では気体で,水にも易溶性であるが,化学的にはHe, Neなどと同じく稀ガス族に属し不活性である(図9).
ウランは地中のマグマに豊富なため,ウラン鉱山に限らず地表の火成岩にはひろく含まれており,特に花崗岩に多い.このため大気中にはラドンが遍在している.ラドンは建材としての石材やコンクリートにも含まれ,空気よりも高比重であることから,換気の悪い屋内では高濃度になりやすい[19].絶対量は微量であるが常時曝露されていることから,自然放射線被曝の原因のほぼ半分を占めている(図10).吸気として取り込まれたラドンは気管支肺胞上皮に付着する.気道には繊毛上皮によるクリアランス機構があるが,ラドン222Rnの半減期は3.8日と短いため,排泄される前に壊変する.その後さらに壊変を繰り返して最終的に非放射性の206Pbになるが,この過程でもα線を放出するので(それぞれ半減期3.1分,164μ秒),気道はこれらのα線を被曝する.
炭鉱労働者の疫学的調査などをもとに,大気中のラドン吸入に伴うα線が喫煙に次ぐ肺癌の原因であることは証明されており,WHOでも発がん物質に指定されている.世界的にはラドン濃度が特に高い地域があるが日本では全般に低く,また日本家屋は木造で通気性が高い事もあってあまり大きな問題になっていない.
・ラドン温泉
温泉は火成岩の多い地域に湧き出るので,多かれ少なかれラドンが含まれるが,特にこれが多いものを放射能泉という.日本の温泉法ではラドン濃度111Bq/kg以上のものとされており,ラドン温泉,ラジウム温泉などと呼ばれている.世界的にも有名な鳥取県の三朝(みささ)温泉は約9,000Bq/Lであるが,海外では数万Bq/Lを超えるところもある.
ラドン泉浴における被曝は,主に温泉の上に漂うラドンガスの吸引による気道被曝であるが,温泉水の飲用が行なわれる場合もある.放射能泉には種々の医学的効果があるとされ,その効能は微量の放射線が生体に好影響を及ぼすというホルミシス効果にその根拠が求められるが,少なくとも現状では有効性を示唆する確実な根拠はない.しかし同時に,放射能泉浴によるあきらかな発癌率上昇の報告もない.前述のように大気中のラドンが肺癌の一因であることは知られているが,年に数回の放射能温泉浴によって被曝量が多少増えたとしても,有意差にならないためであろう.
ラジウム水 Radithor事件
アメリカのWilliam Bailey (ベイリー,1884-1949)は,ボストンに生まれ,ハーバード大学中退後,様々な仕事についたが1910年代からいかがわしいインチキ薬や医療器具を売り,何度か詐欺で訴えられたものの懲りずに様々な新製品を作って売っていた.最大のヒット商品は1925年に発売したラジウムを含む放射能水「Radithor」(レディソール)は,160の疾患に効くとうたっていた(図13).30本入りの1箱が30ドルで当時としては高価であったが,レディソールを処方した医者には17%のリベートを約束するなど巧みな販売戦略で,5年間で40万本を売り上げた.当時このようなラジウム水の類は他にも多く市販されており,大部分は短期間で放射能を失うラドン水であったり,あるいは全く放射能を含まないまやかしものであったが,このレディソールは実際に1瓶あたりラジウム(226Ra)とメソトリウム(228Ra)をそれぞれ約1μCi(37,000Bq)含んでいた.
Ebenezer McBurney Byers(バイヤース,1880-1932)は,名門校エール大学に在学中にアマチュアゴルファーとして優勝,スポーツ万能,美男子のプレーボーイで,卒業後は若くして父親が創業した製鉄所の社長に収まり,財界,社交界の名士であった(図11).1927年,列車の寝台から転落して受傷した上腕の怪我の回復が思わしくなかったため理学療法士の奨めでレディソールを試したところ具合が良いと感じた.以後Byersはレディソールの熱烈な信奉者となり,次第に顎骨の痛みをおぼえ,歯が抜け落ち,1930年に中止するまでに約1,400本のレディソールを服用した(図11).相談を受けた放射線科医は,当時既に社会問題となっていた時計の文字盤の夜光塗料作業者,いわゆる「ラジウムガールズ」事件の被害者と同じ所見であることを指摘し,radium jaw (ラジウム顎)と診断した.2回の顎骨切除手術でかつての容貌は失われ,その後全身の骨にも破壊が広がり1932年に死亡した.剖検時の顎骨は大量の放射線を放出しており,X線フィルムを感光するほどであった[→関連文献].
この事件は患者が有名人であったこともあり広く報道され,ラジウムガールズ事件とともに人々にラジウムの恐怖を植え付けた.米国連邦食品医薬品局(FDA)も放射性医薬品の販売規制に乗りだし,店頭販売はまもなく姿を消した.
レディソールの製造販売者Baileyは虚偽広告の罪で告発され,工場は閉鎖されたが,死亡事故に関しては訴追されることなく,その後もいかがわしい放射性医療器具の販売を続けた.Byers事件で追求された折に,自分は誰よりRadithorをたくさん飲用したが健康に異常はないといってその有害性を否定していたが,事実顎骨病変などの徴候はなく,64歳で膀胱癌で死亡した.膀胱癌とRadithorの関係は不明である[8,20,21].
関連文献
【要旨・解説】ラジウム水「レディソール」 を大量に飲用して死亡し,世間の注目を浴びたたアメリカの資産家Eben Byersの剖検報告である.ラジウム2μgを含むボトルを5年間で1,400本服用し,52歳で死亡した.顎骨壊死,脳膿瘍,貧血,気管支肺炎と記載されているが,死の4週間前に顎骨切除術を受けており,脳膿瘍,気管支肺炎はおそらくそれの合併症と思われ,これが直接の死因になったものと推測される.
全身の骨,臓器を検電器,オートラジオグラフィーで検査し,特に骨(大腿骨,椎骨,顎骨,歯)にラジウムが多く集積していること(図12),心臓,肝,脾など内臓への集積は軽度であることを示している.全ての臓器のラジウム量は73.66μgと推定されている(=2.7x106Bq.実効線量換算係数を 2.3x10-7 Sv/Bq (ICRP Publ. 72)とすれば約600mSvに相当する).
当時,ラジウム水,ラドン水の内用が広く行なわれていたが,売薬の多くは放射能をほとんど含んでいなかったためにあまり問題とならなかった.このレディソールには実際にかなりのラジウムが含まれていたが,高価であったことから一般庶民には手が届かず,死亡するほど大量に摂取した例は稀で,その意味ではラジウム内用によるおそらく唯一の死亡例の貴重な剖検例である.
【要旨・解説】ラジウム中毒犠牲者を生んだラジウム水「レディソール」(Radithor)を製造,販売したWilliam Bailey(ベイリー,1884-1948)(図13)の経歴,手口について,米国医師会(AMA)の調査部門が報じた異例の記事.
Baileyは,1915年に自動車販売に関する詐欺容疑で一度逮捕されているが,その後はラジウムを使ったインチキ万能医薬品・医療器具の製造販売に手を染めるようになった.ラジウム入り経口薬「エイリアム」,「ソロン」,回春装置「レディエンドクリネーター」などを次々と発売したが,最大のヒット作は,1925年に発売したラジウム水 レディソール(Radithor)で,他の類似品がほとんど放射能を含まないただの水であることが多かった当時,正真正銘のラジウム水溶液であった.1932年に,これを数年にわたって大量に服用した資産家Eben Byersの死亡事故が発生し,製造中止に追込まれたが,その後もγ線発生装置「バイオレイ」,ラドン製造装置「ソロネーター」,γ線発生ベルト「アドレノレイ」などの製造販売を続けたことが記載されている.
根っからのペテン師だったようであるが,再三にわたって当局の取り締まりを受けながらも本格的に訴追されることはなかった.
出典
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