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放射線学会・学会誌

英国放射線学会(BIR) / BJR

図1. 世界初の放射線医学雑誌 Archives of Clinical Skiagraphy 創刊号の表紙 (1896). X線発見のわずか半年後,医学生 Sydney D. Rowlandが編集した (→本文

図2. 英国放射線学会(BIR)の機関紙 British Journal of Radiology (BJR) 創刊号の表紙(1928). 幾多の変遷を経て New Seriesとして刊行され,現在に至る(→本文

世界初の放射線医学雑誌は,レントゲンによるX線発見の初報からまだ半年も経たない1896年5月,イギリスで発刊されたArchives of Clinical Skiagraphyであった(図1).わずか38頁であったが,24枚のX線写真が掲載されていた.編集者は弱冠24歳,まだ医学生であったSydney D. Rowlandで,原稿と写真のほとんどは彼自身が用意したものであった[1].Skiagraphyという言葉を初めて使用したのもこのRowlandとされる*.1897年の第4号では,臨床以外の分野の論文も掲載するという意図の下にArchives of Skiagraphyと改称された.1897年6月に,英国初の放射線関連学会 Röntgen Societyが設立され第1回会合が開催されたが,演題抄録を年4回掲載する契約を同誌の出版社と交わし,Archives of the Roentgen Ray に改称された.

* skiagraphy: X線撮影.skia は(ギリシャ語で影の意).これ以前から絵画用語として使用されていたが,この意味に初めて使用したのはSydney Rowlandであった.初出の文献[2]では skiogramと記されている.初期に主に英国で使用され,その後まもなく roentgenography, radiographyが主流になったが,現在でもインドなど一部の国で使用されている.

学会では当初から,物理学者,企業関係者など医師以外のメンバーを受入れるか否かについて論争があったが,結局受入れることに決定した.しかしこれが裏目に出て医学外の論文が主流を占めるようになり,これに不満な医師会員が脱会し,1902年に British Electrotherapeutic Societyを設立した.

1904年,Röntgen Societyは出版社との不合意のため,Archives of the Roentgen Rayの契約を破棄し,独自の季刊誌Journal of Röntgen Societyを出版した.財政面では機器メーカーのサポートが厚く,編集者は物理学者であったため,物理学や装置に力点が置かれ臨床医学系の論文は少なかった.

放射線科医が去った後,Archives of the Roentgen Ray は 1904年にArchives of the Roentgen Ray and Allied Phenomena,さらに1914年には Archives of Radiology and Electrotherapyに改称された*

*レントゲンの名前をはずしたのは,第一次世界大戦におけるレントゲンのドイツ軍への支援,イギリスから授与されたRumfordメダルをドイツ軍に供出したためとされる.

一方,British Electrotherapeutic Societyは,1903年にJournal of Medical Electrology and Radiologyを発刊し,放射線科医の大部分がこれに所属することになった.1907年には,他の22団体とともにRoyal Society of Medicine (Electro-Therapeutic Section)に加盟し,これとともに Journal of Medical Electrology and Radiologyは終刊して,Electro-therapeutic section of the Proceedings of the Royal Society of Medicineがこれを後継した.しかし皮肉なことに,この間Archives of Radiology and Electrotherapy が医学系の論文主体に方針転換したため,形成が逆転し始めた.

1917年,British Association of Radiology and Physiotherapy (BARP)が設立された.これは第一次世界大戦を背景として,放射線科医の需要が急増し,正式な教育,トレーニングの必要性が叫ばれ,これに呼応して新設されたものであった.1918年にArchives of Radiology and Electrotherapyがその学会誌となった.

かくして3つの学会が鼎立する状態となったが,1924年に合流して新たにBritish Institute of Radiology (BIR)が設立された.同時にJournal of Röntgen SocietyArchives of Radiology and Electrotherapy は,それぞれBritish Journal of RadiologyのRöntgen Society section,BARP / BIR sectionとして別々に刊行されたが,1928年に両者合体して,British Journal of Radiology, New Series (図2)となり現在に至っている[3].

米国レントゲン学会(ARRS) / AJR

図3. 米国初の放射線医学雑誌 American X-ray Journal 創刊号の表紙 (1897).内科医Heber Robartsの個人的事業として始まった(→本文).

図4. 米国レントゲン学会(ARRS)の機関誌 American Journal of Roentgenology (AJR) 創刊号の表紙 (1913).その後,一時的に誌名に変更があったが,1976年以降はこの誌名で現在に至る.

英国に遅れること1年,米国では1897年5月に初の放射線医学雑誌American X-ray Journalが創刊された(図3).これは,内科医Heber Robartsの個人的な事業であった.Robartsはこれについて次のように述べている.「本誌の発刊に際して,自分はだれにも相談しなかった.すれば反対の声に巻込まれたであろう.当時,レントゲンの世界は飢餓と呪縛に覆われていた.一般誌上では既にX線のセンセーションは下火となり,医学誌上では医師がX線写真を理解できるのか確信を持てない状態であった」.

米国初の放射線学会の創立は,1900年のことで,Roentgen Society of the United States が設立され,会長にはRobartsが就任した.第1回総会は1900年12月に開催され,参加者は約150人,25演題が発表された.1901年の第2回総会ではRoentgen Society of Americaと改称されたが,これはカナダの会員を加える意図があった.

しかし,第1回,第2回の総会は,電気治療系の参加者による主導権争いやサボタージュ紛いの行為により混乱を極めた.発足時に会員資格について議論の末,会員資格が医師に限定されるAmerican Medical Associationとは提携せず,医師以外も入会できることとなっていた.いかがわしい医療を行う者や単なる商業目的の者は不可とのただし書きがつけられていたが,事実上X線装置さえ持っていれば誰でも会員になれる状態であった[4].そこで「不適当分子」を排除し,会員を推薦制とすることにより改善が図られた.この結果,西部の会員の多くが脱退し,東部中心の学会となった.

一方,American X-ray Journalも財政難を抱えていた.RobartsはRoentgen Society会員の投稿を期待したが,多くの会員は既存の医学誌に投稿し,Robartsはその抄録や放射線医学以外の関連領域論文で誌面を埋めざるを得なかった.また掲載広告に制限を設けなかったことから,いかがわしい治療や施設の広告が跋扈し,これも会員の不評を買っていた.そこで1902年,Robartsは雑誌を電気治療医のPreston Prattに売却した*.同年,正統派の医師が中心となり,American Medical Associationとも連携し,American Roentgen Ray Society (ARRS)と改称された[4].

*その後,Archives of Electrology and Radiology (前America Electro-Therapeutic and X-ray Era)と合併してAm J Progressive Therapeuticsとなり1906廃刊.

第3回総会以降の議事録は,Transactionsとして発行されたが,1906年に季刊誌 American Quarterly of Roentgenologyが刊行され学会誌の役割を担うことになった.1913年に,月刊となりAmerican Journal of Roentgenologyと改称された(図4).その後1923年に,American Radium Society の学会誌ともなったため,American Journal of Roentgenology and Radium Therapyとなり,さらに1952年には核医学の発展を受けて American Journal of Roentgenology and Radium Therapy,and Nuclear Medicine となったが,1976年に再び American Journal of Roentgenology (AJR) となり現在に至っている.

北米放射線学会(RSNA) / Radiology

図5.北米放射線学会(RSNA)の機関紙 Radiology 創刊号の表紙 (1923).現在に至る (→目次

前述のようにARRSの会員は,東部の放射線科医が主体で,年会の開催地も東部に遍在していた.このため西部の会員は,年会に参加することが難しく,また入会に必要な推薦者を探すことも難しいという問題があった.そこで1915年,Dewin C. Ernstは中西部の放射線科医を主な対象とするWestern Roentgen Society (WRS)を設立し,1916年にシカゴで第1回総会が開催された.当初の会員は62名であったが,1919年には38州,472名が会員となった[5].1918年に,季刊誌Journal of Roentgenologyを発刊,1920年にRadiological Society of North America (RSNA)と改称,雑誌もJournal of Radiologyとなった.

雑誌出版の財政的安定を図るために,Albert F. Tyler会長の下,Radiological Publishing Companyが設立されたが,Tylerは自分の弟をマネージャーにすえ,学会の方針に反する運営を行なうなどして内紛が発生した.Tylerは追放され*,1923年に新たに月刊誌 Radiology が発刊されて現在に至っている(図5)[5].

*Tylerは Journal of Radiologyの発行を継続し,雑誌の出版権を巡ってRSNAを相手取って訴訟を起こしたが敗訴[6],同誌は1925年まで続刊され,その後American Journal of Electrotherapy and Radiologyと合併,Archives of Physical Therapyとなった.

ドイツ放射線学会 (DRG) / RöFo

図6. ドイツ初の放射線医学雑誌 Fortschritte auf dem Gebiete der Röntgenstrahlen 創刊号の表紙(1905) (→ 目次

レントゲンのお膝元のドイツでは,英国に遅れること1年,1897年7月に放射線医学のパイオニアのひとり,Heinrich Ernst Albers-Schönbergによってヨーロッパ大陸初の放射線医学雑誌 Fortschritte auf dem Gebiete der Röntgenstrahlen が創刊された(図6).出版社はLucas Gräfe & Sillemであった.初期には,写真は1枚づつ手で貼り込むなど苦労があり,不定期刊であったが間もなく月刊誌となり,その後1921年までAlbers-Schönbergが単独で編集を続けた.1925年にGeorg-Thieme社(現Thieme社)が出版を引き継いだ.1944年には戦禍のため休刊を余儀なくされたたが,1949年に再刊されて現在に至っている.

Deutsche Röntgengesellschaft(DRG, ドイツレントゲン学会)は,1905年にAlbers-Schönbergにより創設され,1926年にFortschritte auf dem Gebiete der Röntgenstrahlenが機関紙となった.1976年以降は,オーストリアレントゲン学会誌ともなっている.

この間,誌名には変遷があったが,1996年にFortschritte auf dem Gebiete der Röntgenstrahlen und der bildgebenden Verfahren となり現在に至っている.しかし誌名が長く煩雑であるため,1981年からはRöFo (Röntgen-Fortschritte)の略称が広く用いられている [7].

1912年には,世界初の放射線治療学の専門誌としてStrahlentherapie が創刊された.当初は放射線治療のみならず,結核の光線療法の論文も掲載されていた.以来,RöFoとならぶドイツを代表する放射線医学雑誌となった(1986年にStrahlentherapie und Onkologieと改称され,現在は英語で出版されている).Deutsche Gesellschaft für Radioonkologie (DEGRO, ドイツ放射線腫瘍学会)の他,オーストリア,スイスの放射線腫瘍学会の機関誌となっている.

日本医学放射線学会(JRS)

図7. 日本初の放射線学会,日本レントゲン學會雑誌の創刊号の表紙(1923) (→ 目次

日本における放射線医学の発展は,欧米に大きく遅れをとった (→ 日本における初期のX線研究).1896年3月頃から主に物理学者による追試が行われたが,医学応用についてはほとんど発展がなく,内科,外科,整形外科などの各科の研究者の散発的に試みにとどまり,放射線学会や専門誌も存在しなかった.

このような状況に一石を投じたのが,後に慶應義塾大学教授として日本初の放射線医学教室を創始した藤浪剛一であった.藤浪は1909年にウィーン大学に留学,1912年に帰国して日本初の放射線科医として順天堂医院レントゲン科を開設したが,翌1913年に東京帝国大学整形外科の田代義徳らと共に レントゲン研究會 を開始,1914年に 醫理學療法雑誌 を発刊した.これは日本初の放射線医学関連雑誌であった.

1923年,レントゲン研究會のメンバーを中心として,日本レントゲン学會が創立され,これが日本初の放射線関連学会となった.同時に 日本レントゲン学會雑誌 が発行された(図7).しかし,1933年の第11回年次総会で,学会の運営方針に異を唱える一部の会員が離脱して 日本放射線醫學會 を組織し,機関誌として 日本放射線醫學會雑誌 を刊行した.この結果2つの学会が併存することとなったが,1940年に統合されて 日本醫學放射線學會 (Japanese Society of Radiology, JRS)となり,機関紙として 日本醫學放射線學會雑誌 が創刊されて現在に至っている (→ 藤浪剛一と放射線学会).

出典