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マリー・キュリー Marie Curieflag-franceflag-france

経歴と業績

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マリー・キュリー(Marie Curie, 1867-1934) [1]



Marya Skłodowska (マリア・スクウォドフスカ, 1867-1934)はポーランドに生まれた.父はギムナジウムの数学・物理学教師であった.ウィーン体制下のポーランドは,ポーランド立憲王国としてロシア統治下にあり,1863年の一月蜂起失敗後はさらに厳しい弾圧を受け,学校でもポーランド語の使用が禁じられる窮屈な時代で,父は失職,母は病死し,貧困な家庭であった.1883年,ギムナジウムを最優等の成績で卒業したが,女性に進学の道は閉ざされていたため,苦学の末フランスにわたってパリ大学(ソルボンヌ)に学び,1893年,物理学,数学の学士号を得た.フランスではMarieという名前を使った.物理学者のPierre Curieと知り合い1895年に結婚.夫の奨めで博士号のテーマとしてベクレル線の研究に着手,1898年に新しい放射性同位元素ポロニウム,ラジウムを発見,1902年には塩化ラジウムの精製分離に成功.1903年に「放射性物質の研究」で博士号を取得した.

1903年にHenri Becquerel,夫Pierre Curieとともにベクレル線の研究に対してノーベル物理学賞を受賞.1906年に夫の事故死後は,パリ大学教授として研究を続けた.1911年,ラジウムとポロニウムの発見に対してノーベル化学賞を受賞.パリにラジウム研究所を設立.第一次世界大戦中はX線撮影装置を載せたトラックを20台提供し,自らもハンドルを握って戦傷者の医療に尽力した.戦後はラジウム研究所でラジウムの医学応用の研究,研究者の育成にあたった.娘Irèneと女婿Frédérick Jolio=Curieは,世界初の人工放射性同位体30Pを合成した(1935年ノーベル化学賞).1934年,積年の放射線被曝による再生不良性貧血にて死去 [2,3].

出典