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放射能と放射性物質

放射能の発見

nm-becquerel

図1. 閃ウラン鉱.ベクレルはこのようなウラン含有岩石の蛍光を研究する中で放射能を発見した.

レントゲンによるX線発見の報をフランスの物理学界に紹介したのは,数学者のJules-Henri Poincaré(ポアンカレ,1854-1912)であった. Poincaré は,1896年1月20日のパリ科学アカデミーの週例会でレントゲンの論文と写真を供覧し,X線が陰極線がガラス管に衝突して蛍光を発する部位から発生していることから,蛍光とX線の関連について研究の余地がある旨発言した.出席者の一人で,蛍光,燐光の研究者であったAntoine Henri Becquerel(ベクレル,1852-1908)はこれにヒントを得て,その翌日から実験を開始した.

まず黒い紙で覆った写真乾板の上に蛍光物質を載せて日光を照射し,乾板が感光するか調べた.初回の実験は不成功に終わったが,試料を蛍光ウラン化合物にかえて実験を繰り返したところ,乾板が感光することを発見し,蛍光物質から紙を透過する未知の光線が放出されていることを2月24日のフランス科学アカデミー例会で発表した(→原著論文).翌日からこれを追試しようとしたが,たまたまパリは天候不良が続き日光を照射できなかった.しかしこの乾板を3月1日に現像してみると予想に反して強く感光していることがわかり,ウラン化合物から蛍光とは無関係に未知の光線が出ていると考え,これを翌3月2日の例会で発表した(→原著論文)(図1).放射能の発見である.なぜベクレルが,日光に当たらなかった乾板を現像してみようと思いたったのかは不明であるが,単なる科学的直観のなせるわざだったのか,あるいは翌日の例会を控えて何か発表の材料を求めたのかも知れないが,いずれにせよ「セレンディピティ」であった.

Becquerelはこの年7編,翌年にはさらに2編の論文を発表し,この未知の光線は日光など外部エネルギーとは無関係に発生し,非蛍光性のウラン化合物からも放出されていること,ウラン元素を含んでいれば単体,化合物,水溶液などその物理化学的状態とは無関係で,光線の強さはウラン含量に比例すること,X線と同じく電離作用を持つこと,磁場によって偏向するものとしないものがあることなどを明らかにした.Becquerelはこの未知の光線をウラン線(rayons uraniques)と呼び,またベクレル線(rayons de Becquerel)とも称された.

この時点でBecquerelは放射性物質,放射能を発見したわけであるが,Becquerel自身はまだ放射能という言葉を使用していない.ウラン線の発見はその後の物理学,医学の発展に極めて大きな影響を持つことになるが,当時はレントゲンのX線発見に比べるとインパクトは小さかった.1896年の1年間に発表されたX線関連論文は1,000編以上にのぼるが,ウラン線については十数編に過ぎず,何の役に立つのかまだ誰にもわからなかった.この発見が原子核構造の本質解明の糸口となるにはCurie夫妻,そしてRutherfordの登場を待つ必要があった[1,2].

原著論文

《1896-放射能の発見-第1報》
燐光物質から放出される放射線について
Sur les radiations émises par phosphorescence
Becquerel H. Comptes Rendus 1896;122:420-1

【要旨・解説】
1896年2月24日の科学アカデミー例会の講演録.写真乾板を黒い厚紙で覆い,その上に燐光物質(ウラン化合物)を置いて日光に当てると,乾板が感光する.従って,燐光物質は厚紙を透過する光線を放出している,という報告である.この時点ではまだ光線の発生には日光の存在が必要であると考えている.わずか28行であるが,放射能の存在の可能性を初めて記した論文である.

原文 和訳


《1896-放射能の発見-第2報》
燐光物質から放出される目に見えない光線について
Sur les radiations invisibles émises par les corps phosphorescents
nm-becquerel

図2. 現像した写真乾板.燐光物質を置いたところが黒化している.下は十字型の金属を置いたもの.Becquerelの実験記録に残された署名入りだが,この写真は論文には掲載されていない[3].

Becquerel H. Comptes Rendus 1896;122:501-3

【要旨・解説】
1896年3月2日付の科学アカデミー例会の講演録.前報を追試すべく実験の準備をしたが,天候不良のため日光に当てることができず,燐光物質を写真乾板の上に載せたまま机の引きだしにしまっておいたが,これを現像してみると,予想に反して写真乾板が強く黒化していた(図2).このことから,ウラン化合物は日光の有無にかかわらず,自発的に未知の光線を放出していると考えるにいたったことが記されている.放射能発見の瞬間である.これを確認したのはこの発表の前日,3月1日であった.

これに続く第3報は3月9日付で,奇しくもレントゲンの第2報と同日であるが,内容も検電器を使って未知の光線の電離作用を検証している点で合致している点は興味深い.

原文 和訳

関連事項

40年前の放射能発見

1896年,Henri Becquerelはウランが写真乾板を感光することに気付いて放射能を発見したが,実はこれに先立つこと約40年,1857年にこれと全く同じ現象が観察され,論文まで発表されている.フランスの写真家Abel Niépce de Saint Victor(ニェプス,1805-1870)は,同じく写真家のいとこNicéphore Niépceとともに初期のグラビア印刷など写真技術の研究家として知られるが,1857~8年,ウラン塩が暗室で乾板を感光する現象に気づき,燐光,蛍光とは異なる未知の目に見えない光線が放出されていると推測する論文を著している[4,5].ただ,この光線の放出にはまだ事前の日光の照射が必要と考えていたようである.Niépceは,Henri Becquerelの父,Edmond Becquerelの知己で,Becquerelはその著"La lumière: ses causes et ses effets" (光:その原因と結果)にこの現象を記載している.Niépceは科学者ではなかったこともあり,この現象をこれ以上追究しなかった.

1896年,Henri Becquerelがウラン鉱石による乾板の感光を報告した論文は3月に出版されているが,その直後7月に,イギリスの物理学者Slivanus Thompson(トンプソン,1851-1916)は,日光の照射なしにウラン塩が乾板を感光する同様の現象を報告しており[6],基本的にBecquerelと同じ内容であるが,タッチの差で放射能の発見者はBecquerelということになった.

ラジウムの発見

nm-becquerel

図3. 実験室のCurie夫妻.Marieの前にあるのが,Pierreが発明した圧電式電流計[3].

1896年,Becquerelの発見したウラン線(ベクレル線)の研究はしばし停滞していた.これを新たな段階に進めたのがMarie Curie (マリー・キュリー,1867-1934)である.1898年,マリー・キュリーは,夫のPierre Curie(ピエール・キュリー,1859-1906)に勧められて学位論文のテーマとしてウラン線の研究に着手した.物理学者Pierreは結晶学,電磁気学の専門家で,きわめて微弱な電流を測定できる圧電式電流計(piezoelectric electrometer)を開発しており[7],Marieはこれを使って微量な放射性物質による空気の電離を定量することができた(図3). そしてまず,様々な鉱石を測定し,ウランだけでなくトリウムが強力なベクレル線を放出していることを報告した(→ 原著論文 ).

また,特に瀝青ウラン鉱(ピッチブレンド)が,ウランやトリウムだけでは説明できない強力なベクレル線を放出していることを発見し,Pierreとの共同で研究をすすめ,1898年,ビスマスに類似したウランよりも400倍も強力な放射線を出す新しい元素を発見,Marieの祖国ポーランドに因んでポロニウム(polonium)と命名した(→原著論文).同年,これに続いてさらに強力な放射線を発生する,化学的にバリウムに類似した新元素ラジウム(radium)を発見した(→原著論文).この時点ではまだ純粋なラジウムは得られていないが,以後Joachimsthalのウラン鉱山に廃棄物として積まれていたウラン抽出後の廃鉱石数トンを運び込み,大変な苦労の末に化学処理し,1902年,120mgの塩化ラジウムの抽出に成功した.さらに1910年には,金属ラジウムの精製に成功した.

ラジウムの発見は2つの大きな意味を持つことになった.ひとつは,その後のRutherfordらの研究を通じて,原子核壊変の存在が明らかとなって原子核構造解明の糸口となり,核物理学発展の契機となったこと,もう1つは放射同位元素の医学応用,すなわち核医学の端緒となったことである.

原著論文

《1896-ウラン以外の放射性物質の発見》
ウランとトリウムの化合物が放出する光
Rayons émis par les composés de l'uranium et du thoirum
Sklodowska Curie. Comptes rendus hebdomadaires des séances de l’Académie des sciences. 126:1101-3,1896

【要旨】ベクレルが放射能を発見したウラン以外にも放射線(ベクレル線)を発生する物質がないか,様々な物質による空気の電離を測定した.ウラン化合物は活性が高く(=ベクレル線が強く),また一般にウラン含有量が多いほど高い.トリウム化合物の活性は非常に強く,特に酸化トリウムは金属ウラン以上である.さらにウラン化合物の中でも,瀝青ウラン鉱(ピッチブレンド)などのようにウラン自体より活性が高いものがあり,ウランより活性の高い元素を含んでいることが示唆される.

【解説】フランス科学アカデミー週報1896年4月12月号.トリウム鉱石が,ウラン鉱石より強いベクレル線(ウラン線)を発生していることを証明し,ベクレル線がウランに固有のものではないことを示した.さらにある種の鉱石からは,そのウラン,トリウム含有量から期待されるよりも強いベクレル線が出ていることから,さらに強力な放射線を放出する未知の元素が含まれていることを予測しており,これは次報でのポロニウム発見の布石となる.物質から出るベクレル線の強さをactivité(活性)と表現しているが,まだradio-activité(放射能)という言葉は使っていない.なお著者名は,キュリー夫人の旧姓 (Marya) Sklodowskaと夫Pierre Curieの姓から成っており,Pierreとの結婚後の論文としては唯一の単著である.なお,トリウムの放射線についてはこの直前にドイツの物理学者Gerhard Schmidtが報告しており,優先権は得られなかった[8].

原文 和訳


《1898-ポロニウムの発見》
瀝青ウラン鉱に含まれる新しい放射性物質について
Sur une substance nouvelle radio-active, contenue dans la pechblende
M.P. Curie, Mme S. Curie. Comptes rendus hebdomadaires des séances de l’Académie des sciences. 127:175-8,1898

【要旨】前報で瀝青ウラン鉱(ピッチブレンド)などある種の鉱石が,含有するウラン,トリウムよりも強いベクレル線を放出する未知の物質を含んでいることを示唆した.そこで瀝青ウラン鉱からこの物質の分離を試みた.精製の過程では,生成物が空気を電離する性質を検電計で測定してその目安とした.硫酸,硫酸アンモニア,硝酸で順に処理することにより,ウランの400倍強力な物質を得た.化学的にはビスマスに類似した元素で,著者のひとりの祖国に因みポロニウムという名称を提唱する.

【解説】1898年7月18日号.前報の3か月後に発表されたもので,前報の予測に違わず瀝青ウラン鉱から新元素ポロニウムを分離した報告である.分離精製にあたっては,酸や塩基を加えて分別結晶化した沈澱物を作り,放射能が存在する分画を確認することを繰り返す,現在でいう放射化学(radiochemistry)の方法を駆使している.この論文で初めて radio-active(放射性)という言葉が登場する.Pierre と Marieの共著であるが,Marieの名前には前報と同じく旧姓が使われている.

原文 和訳


《1898-ラジウムの発見》
瀝青ウラン鉱に含まれる新しい強力な放射性物質について
Sur une nouvelle substance fortement radio-active, contenue dans la pechblende
M. P. Curie, Mme P. Curie, M. G. Bémont. Comptes rendus hebdomadaires des séances de l’Académie des
sciences. 127:1215-17,1898

【要旨】前報では瀝青ウラン鉱からビスマスに類似した新元素ポロニウムの分離を報告したが,これとは異なる第2の新元素を発見した.これは化学的にはバリウムに似ており,ウランの900倍の放射能を有する.専門家にスペクトル分析を依頼し,既知のいずれの元素とも一致しない輝線を見いだした.この新元素にラジウム(radium)の名称を提唱する.ウラン,トリウム,ポロニウム,ラジウムを含む化合物は,空気を電離し,写真乾板を感光し,白金シアン化バリウムから燐光を発生するが,エネルギー源なしに動作しており,熱力学の法則に反するように思える

【解説】1898年12月26日号.ポロニウム発見の前報の5か月後,2つ目の新元素ラジウムの発見を告げる論文である.本稿でも引き続き radio-active (放射性)という言葉が頻用され,さらに本稿で初めてradio-activité(放射能)という言葉が登場する.この時点で,ウラン,トリウム,ポロニウム,ラジウムという4つの元素が放射能を持つことが明らかとなったわけであるが, 中でもラジウムは強力で,その後の物理学,医学の発展に大きな役割を果たすことになった.最後にひとこと,エネルギー源に関する疑問が提示されている.Curieらは空間に普遍的に存在する宇宙線のような外部エネルギーによるものと考えていたらしいが,これが原子核に内在する核エネルギーに由来することが明かとなるにはさらに数年後,Rutherfordの研究を待つ必要があった.

本稿の著者は,Pierreが筆頭で,Marie Curieは,Pierre Curie夫人(Mme)と記載されている.3番目の著者G. BémontはPierreの共同研究者である.ラジウムのスペクトル解析を専門家のDemarçayに依頼しているが,その論文が直後に掲載されており,バリウムとは異なる新元素と考えられるスペクトル線の存在を報告している.

しかしこの後,ラジウムの精製分離は困難を極め,劣悪な環境の実験室で,数トンものピッチブレンドを大釜で加熱,化学処理を繰返し*,わずか120mgの塩化ラジウムを手にしたのは1902年,電気分解法により金属ラジウムを手にしたのは1910年のことであった.

* 1898年の時点でキュリーが手にしていた物質は,大部分がバリウム塩で,ラジウムの含有量は痕跡的なものであった.この後,大量のピッチブレンドを炭酸ナトリウムで煮沸して炭酸塩とし,塩酸,硫酸を加えて硫酸バリウム・ラジウム混合塩を沈澱分離,ここからさらに溶解度の差を利用する晶析分離法によって両者を分離して最終的に塩化ラジウムを得た[9,10].晶析分離法は化学分析の手法として確立したものであったが,抽出の各段階で得られる試料分画の検定に,従来の秤量法や分光分析法に替えて電位計による放射能測定を用いたのはキュリーが初めてある[10].

原文 和訳


《1904-マリー・キュリーの博士論文》
放射性物質の研究
Recherches sur les substances radioactives
Sklodowska Curie. Gauther-Villars, Imprimaeur-Libraire, Paris. 1904

【要旨・解説】Marie Curieの博士論文である.世界で最も読まれ,最もインパクトのある学位論文であると言われている.本稿は1904年刊であるが,学位授与は前年1903年6月で,同年12月にHenri Becquerel, Pierre Curieとともに第3回ノーベル物理学賞を受賞している.全4章から成る.冒頭に歴史的背景として,Becquerelがウラン塩の蛍光性が露光と無関係であり,ウラン線(ベクレル線)を放出していることを発見したことが述べられている.

第1章では,ウラン鉱石が放出するベクレル線の強度を,圧電効果を利用した検電計による電流値として測定し,ウラン鉱石に含まれる様々なウラン化合物,トリウム化合物が異なる強度のベクレル線を放出していることを示している.この測定装置は物理学者Pierre Curieが発明したもので[7],放射能を精密に定量できるという点でこの研究には必須の測器であった.様々な物質,鉱物を測定したが,ウラン,トリウム以外に放射能をもつ物質を発見できず,ウラン,トリウムが最も強い放射能をもつと考えた.しかしピッチブレンドなどある種の鉱石は,金属ウランの4倍の放射能を有することから,強力な放射能を有する新たな物質を含有している可能性が高いと考えられた.

第2章では,この新たな放射性物質をピッチブレンドから抽出する過程が詳述されている.新たな放射性物質としてはポロニウム,ラジウム,アクチニウムの名前がいきなり登場するが,これは先行論文に既述のものである.冒頭に,数年来ラジウムとポロニウムの分離に傾注しているが,前者に成功したのみであるとしている.オーストリア政府の厚意でヨアヒムシュタールのウラン尾鉱数トンを入手した.分離工程は専ら化学反応を利用するもので,鉱石を粉砕し,硫酸,塩酸,炭酸ナトリウムで順に処理し,上清を捨てて沈澱物に硫酸化合物を得る.これをさらに塩酸,硫化水素,炭酸ナトリウムなどで処理して,鉱石1トンから約8kgの塩化ラジウム,塩化バリウムの混合物が得られる.最後はこれを溶解度の差によって分別する,現在でいう晶析分別法にかけ,鉱石数トンから数dg (数百mg)のラジウムを得た.いずれの工程でも,各分画の放射性物質の存在を検電計で計測すると同時に,必要に応じてスペクトル分析を加えてその存在を確認している.こうして得られたラジウムの原子量を225としている(現在の知識では平均226).

第3章では,ラジウムが放出する放射線(ベクレル線)の性質を分析している.主な分析法は,検電計による電気的方法であるが,蛍光法や写真乾板を利用した写真法についても言及している.数年前にRutherfordが既にα線,β線,γ線を区別しているが,なお陰極線とβ線が明確に区別されていないため多少混乱がある.冒頭でラジウムの放射線にはこのすべてが含まれており複雑であるとしており,その後,磁場,電場の影響,物質透過性,電離作用,蛍光作用,発熱作用,化学作用などを検討している.生理学的作用については1頁弱が割かれているのみであるが,皮膚に発赤を来たすこと,Pierre Curieが実験的に腕に10時間貼付したところ,治癒に4ヵ月を要したとしている.また光覚を刺激すること,脳,脊髄の障害により動物が死亡したという実験を引用している.

第4章は,誘導放射能を扱っている.ラジウムの近傍に置いた物質が一過性に放射性を帯びることをさしており,Rutherfordはこれをラジウムが放出する放射性の気体,エマネーション(現在の知識ではラドン)によるものとした.ここでは,ラジウムを閉鎖空間に置いて気流の影響を除去したり,加熱,溶解するなどの実験を行っているが,その成因について結論が得られていない.この問題が解決するには,Rutherford ,Soddyによる原子核壊変,放射性同位体の概念の確立を待つ必要があった.この中に,放射性粉塵のために研究室の空気,器材,衣類がすべて放射性になるので,分析機器を研究室にもちこまないという注意が述べられているが,健康被害の可能性については全く言及されていない点は注目される.

最後に「放射能現象の本質と原因」として,放射性物質のエネルギー源について簡略に論じらている.エネルギーが物質内で生成されているのか,あるいは外部エネルギーによるものかという議論である.既に第3章でラジウムの発熱を述べるに当たって,発熱は通常の化学変化では説明できず,ラジウム原子自体の緩徐な変化によるものとする可能性を述べ,それであればそのエネルギー量は,我々が知るところを凌ぐ大きさであると的確にの予測している.この最終章では,やはり原子の変換によるものである可能性が高いとしつつも,太陽エネルギーなど外部のエネルギー源,あるいは周囲の環境の影響などに含みを残している.

原文 和訳

関連事項

核物理学のはじまり

Curie夫妻により放射性元素が発見されたが, (1)放射されている光線(ベクレル線)は何か,(2)そのエネルギー源は何か,という問題は未解明であった.Pierre Curieは,(1)についてはベクレル線はX線類似のものと考えていたが,X線と異なり磁場で偏向する成分があることを発見していた.(2)については,宇宙線や空気の熱運動エネルギーのような外部エネルギーの可能性を考えていた.この問題を最終的に解決し,ひいては原子核構造を明らかとして核物理学の基礎を築いたのが,核物理学の父と称されるイギリスの物理学者Earnest Rutheford(ラザフォード,1871-1937)と,その共同研究者,後継者のFrederick Soddy(ソディ,1877-1956),弟子のJames Chadwick(チャドウィック,1891-1974)らであった[11].


α線,β線,γ線

Rutherfordは,1898年からベクレル線の研究を始め,1899年,ウランが発生する放射線には2種類あり,電離作用が強いが透過性が小さいもの,電離作用は弱いが透過性の強いものがあることを報告し,これをそれぞれα線,β線とした.そしてその後,α線はヘリウム分子,β線は1898年にトムソンが発見していた電子と同じものであることを示した.1900年,フランスの科学者Paul Villard(ヴィラール,1860-1934)は,β線の中にさらに透過性が高く磁場で偏向しない成分を発見し,1903年にRutherfordはこれをあらためてγ線と命名した.こうしてかつてウラン線,ベクレル線と言われていた放射性物質から放出される光線の本態が明らかとなった.


原子核壊変の発見
nm-rutherford1

図4. トリウム(Th)とトリウムX(ThX)の放射能の経時的変化(横軸は日).Thから化学的にThXを分離すると放射能を失うが,約4日で約半分が回復し,同時にThXの放射能は約半分になる.Rutherfordらはこれら一連の実験から,放射性元素が放射線を放出しながら別の元素に転換すること,すなわち放射性壊変を発見した[12].

Rutherfordはこれと平行して1899年,ウランやトリウムからガス状の放射性物質が発生し,周囲の空気を電離し,他の物質に接触すると放射能を付与する現象を発見して,このガス状放射性物質をエマネーション(emanation) と名づけ,これが新たな放射性元素,アルゴン族の気体(現在の知識では222Rn)であることをつきとめた.さらに1900年からは,イギリスの化学者Frederick Soddyと共同で研究を進め,トリウム(Th)にアンモニアを加えると放射能をもつトリウムX(ThX,現在の知識では224Raと228Raの混合物)が分離してThは放射能を失うが,約4日でThは放射能を半分ほど回復し,同時にThXの放射能は半減するという奇妙な現象を発見した[12](図4).

これらの一連の実験から,1902年,放射性元素は放射能を放出しながら次々と別の元素に転換するという,「元素は不変」とする既製概念を打ち破る画期的な結論に達した.原子核壊変の発見である.この時放出されるエネルギーは,元素に内在するエネルギーと考えこれを測定したところ,1グラムのラジウムが壊変して放出するエネルギーは1億カロリー以上という莫大な数字となった.RutherfordSoddy はこれを1903年「放射性変化」に著した(→関連文献).1908年,Rutherfordは「元素の崩壊および放射性物質の性質に関する研究」に対してノーベル化学賞を受賞した.


同位体の発見

この時点で同位元素の概念はまだ確立しておらず,元素がどのような過程で変換して行くのか不明の点が残されていたが,1913年,Soddy は当時知られていた約40個の放射性物質が,元素表の上では鉛からウランまで11個の元素の範囲に分布し,その中には化学的に分離不能なものがあることから,同じ原子番号,同じ化学的性質を持ちながら質量の異なる元素の存在を提唱し(→関連文献),これを元素表周期律表の上で同じ位置を占めるという意味から同位体(isotope)と命名した[13].その後,放射性を持たない同位元素も発見され,同位元素の存在はすべての元素に共通する普遍的な特性であることが明らかとなった.1921年,Soddyは「放射性壊変と同位体の理論の研究」に対してノーベル化学賞を受賞した.


新たな原子モデル
nm-rutherford2

図5. 原子構造は,それまでのPlum-puddingモデル(左図)ではプラスの電荷を持つ比較的大きな球体内に小さなマイナスの電荷をもつ小さな粒子(電子)がまばらに散在していると考えられていたが,Rutherfordは原子の中心部にプラスの電荷が集中しており,その周囲をマイナスの電荷が飛び回る新たなモデル(Rutherfordモデル)を提唱した(右図)[14].

当時,原子構造のモデルはJ. J. Thomson(トムソン)が陰極線の実験から導き出した提唱したPlum-puddingモデル(日本語ではブドウパンモデルともいう)と言われるもので,これはプラスの電荷をもつ球体の中に,(後に電子と名づけられる)マイナスの電荷をもつ小粒子がまばらに点在しているというものであった(図5).1911年,Rutherfordは,金箔にα線を照射して散乱を測定することにより原子の内部構造を調べる実験を行なった.もしプラムプディングモデルが正しければ,金の原子に入射した重いα粒子は,内部の小粒子に衝突してもほとんど散乱されず,偏向は小角度の扇状範囲に収まるはずである.しかし実際には,90度以上にわたって広い範囲に偏向することが分った.この事は,大きなα粒子を跳ね返すだけのプラス電荷が原子の中心部分に非常に小さく集中していることを意味しており,これをもとにRutherfordは新たな原子モデルを提唱した[14].この原子核の周囲を小さな電子が回るRutherfordモデル(図5)は,その後の量子力学の発展により最終的には誤りとされることになるが,直観的に理解しやすく様々な現象を説明しやすいことから現在もしばしば用いられている.


中性子の発見

1919年,Rutherfordは14Nにα線を照射して17Oを作り,新たな核種を人工的に作れることを示した.すなわち原子核反応(原子核変換)を発見した.この反応は 14N(α, p)17O と表わされ,その後,この(α,p)反応は他の多くの原子でも起こることが明らかとなった.

1920年,Rutherfordはロンドンでこれに関して「α粒子による窒素原子の変換について」という講演を行なったが,その最後に,原子核には陽子以外に電荷をもたない粒子が存在するという予測について述べ,この未知の粒子を中性子(neutron)と名づけた.その後多くの研究者が中性子を求めて実験を繰り返したが容易にこれを捉えることはできなかった.

1932年,かつてのRutherfordの学生James Chadwickは,ベリリウムにα線を照射すると極めて透過性の強い放射線が発生することを発見した.この事実は,既にPierre Curieが報告しておりこの放射線はγ線であるとしていたが,Chadwickはγ線とは異なるものであること,これがまさしく中性子であることを証明した.現在の知識でいえば,9Be(α, n)12Cという原子核反応を発見したといえる.1938年,Otto Hahnが中性子をウランに照射して核分裂反応を発見し,原子力時代の幕が切って落とされることとなった.

関連文献

《1903-原子核壊変の発見》
放射性変化
Radioactive Change
Rutherford E, Soddy F. Philosophical Magazine 5:576-91,1903
nm-rutherford1

図6. この時点で知られていた3つの放射性元素,ウラン,トリウム,ラジウムが「放射性変化」によって別の元素に変化する仮定.現在の知識で言えば,Uranium X,Thorium Xはそれぞれトリウム(Th),ラジウム(Ra)の同位体,Thorium Emanation, Radium Emanationはラドン(Rn)の同位体,?で示される最終生成物は鉛(Pb)である.

【要旨・解説】
原子壊変の概念を確立した画期的な論文である.RutherfordとSoddyは,ラジウムから発生する気体状の物質(エマネーション)の研究を端緒として,1900年から共同研究を行ない多くの論文を著しているが,それらの知見をまとめてひとつの結論,すなわち元素は放射線を放出して別の元素に変化するという,元素は不変とする従来の概念を覆す画期的な結論に達した.この論文では,タイトルにもあるように一貫してあっさり「変化」(change)と表現されているが,これは現在でいう元素の変換(transmutation),崩壊(decay)に他ならない.この変化は指数関数的に進むこと,すなわち一定時間毎に半減してゆくことが示されている*.この時点で知られている放射性元素は,ウラン,トリウム,ラジウムの3種類であるが(図6),今後さらに多くの同様な元素が発見されるであろうこと,このような元素の変化は非放射性元素を含めて普遍的なものであろうことを指摘している.

ここでは「変化」の結果生じる一連の放射性元素を metabolon と称しており,その中に放射性や質量は異なるが化学的に分離できない「分離不能な放射能」(non-separable activity)があることを示している.これはとりもなおさず放射性同位体のことであるが,10年後にこの概念を確立したのは共同研究者のSoddyであった.

最後に,この「変化」から推測される原子内部のエネルギーは,従来知られている化学反応で放出されるエネルギーの100万倍にもなることが示される.このエネルギーの解放,すなわち原子力の利用には,1932年,かつてRutherfordの学生であったChadwickによる中性子の発見を待つ必要があった.

*半減期に相当する言葉はまだここでは使われておらず,falling to half valueといった表現にとどまっている.1909年のSoddyの著書 ”Interpretation of Radium"では,Period of half changeという表現が使われている.現在主に使われている half-lifeという表現の初出は,Cameron AT. Some properties of radium emanation. J Chem Soc. 91:1266-82,1907と思われる (OED).1910年,The International Congress of Radiology and Electricityで,ラジウム原器の策定を目的とする委員会が組織されたが,ここで同時に放射性物質の命名法や関連用語も検討され,"half-value period" の導入が決定された.

原文 和訳


《1913-放射性同位元素の発見》
放射性元素と周期律
The Radio-elements and the Periodic Law
Soddy F. Chemical News 107:97-9,1913
nm-soddy1

図7. 既知の放射性元素をα壊変,β壊変の法則に当てはめ,質量数に応じて並べて作った放射線壊変系列図.縦方向にならぶ元素は,化学的に分離できない事,すなわち(まだその呼称はないが)同位体であることを示している.

【要旨・解説】
当時知られていた多くの放射性元素の化学的性質を系統的に調べることにより,周期律表上で同じ位置を占める放射性同位元素の存在を明らかにした初の論文である.まだ発見されていない核種もあるが,現在知られているラジウム系列,トリウム系列,アクチニウム系列のほぼ全容が解明されており,最終生成物が鉛であることも正しく推測されている.

質量や放射線学的性質(放射線寿命)が異なる放射性元素の中に,化学的に分離不能(non-separable)なものが数多くあることを見いだし,これにα壊変,β壊変(それぞれα線変化,β線変化と称している)による原子番号,質量数の変化の法則を当てはめることにより,崩壊過程をひとつひとつ解明している.こうして同定された放射性元素の数が,周期律表の枠数よりも多く,「周期律表の空席には,原子量が数単位異なる化学的に分離不能な元素がひしめいている」という結論に達している.当時知られていた放射性元素には,例えばラジウムであればRaA, RaB, RaC……のように起点となる元素名に壊変順に連番が振られており複雑であるが,これが最後の付図で明瞭に整理され(図7),図で同じ位置にあるものは化学的に分離不能であることが示されている.

この論文にはまだ同位元素(isotope,アイソトープ)という名称は登場していない.この言葉は,同年12月のNature誌,Letter to the Editor欄で,Soddyが初めて使用している[13]. この名称は,Soddyが妻の友人,医師でありまた小説家としても知られていたMargaret Todd(1859-1918)に自分の研究の話をした際に,周期律表で同じ場所を占めるという意味(iso=同じ,topo=場所)で彼女が提唱し,それをSoddyが採用してこの論文に記載したものであった.

原文 和訳

出典