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ケーラー  Alban Köhler

経歴と業績

ケーラー(Alban Köhler, 1874-1947)[2]

1874年,ドイツ,チューリンゲン地方の村Petsaの農家に生れた.少年時代は絵画や写真,写真機に興味を持っていたという.1895年,医学生の時代にレントゲンによるX線発見の報に接した.1899年,医学部を卒業後,WiesbadenのSt. Joseph病院で外科医となり,1902年にX線の仕事を開始した.1906年には放射線科クリニックを開業した.Köhlerはその後も大学に所属することなく自らのクリニックで業績を重ね,クリニック1945年に連合軍の爆撃で焼失するまで続いた.放射線に関する業績は多岐にわたり,最初期には,後の両面乳剤フィルムのもととなったX線乾板を2枚重ねるDoppleplatte法,圧迫グリッドなどを開発した[1,2].

初期からX線防護に強い関心をもち,X線透視を行う際には常に鉛遮蔽板を使用した.このため,同年代の放射線科医の多くがその晩年に放射線障害に罹患したのに対して,Köhlerは天寿を全うした.1912年,ドイツ放射線学会長をつとめた際には,X線防護を推奨するパンフレットを会員に配布し,1934年には放射線科医の放射線障害に関する研究報告を行っている[1].

Köhlerが生涯にわたって最も大きな関心を持ったのは放射線診断学,特に骨のX線診断であった.1901年には早くも初の本格的な骨X線診断の教科書といえる「骨疾患のX線所見」[3]を出版した.1908年に報告した小児に発生する未知の足舟状骨疾患は,その後Köhler病と呼ばれるようになり[4](→原著論文),1920年に報告した第2・3中足骨の病変は第2Köhler病と呼ばれ[5],現在では骨端症として理解されている.1910年には「正常と早期病変の境界アトラス」を出版した[6].これはそれまでの約10,000例のX線撮影に基づくもので,正常像,正常変異,これらと区別が難しい早期病変のアトラスである.特に骨のX線診断においては正常像の範囲が広く,病変との境界の判断が難しい場合が多いことに早くも気付いたKöhlerの炯眼が生んだ名著であった.初版は177頁であったが,その後版を重ねて1943年の第8版は約900頁となった.1947年,Köhlerは第9版の準備中に没したが,その後も改版が続けられ,1953年以降は対象疾患が骨関節領域に絞られたが,2000年の最新版は1,000頁超の大著となっている.

出典