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ダマディアン  Raymond Damadianflag

経歴と業績

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ダマディアン(Raymond Damadian, 1936-2022)[5]

1936年,ニューヨークに生まれた.高校1年の時,難関のフォード奨学金試験を得て,高校卒業を待たずにWisconsin大学に入学,数学と化学を専攻,その後Albert Einstein医科大学に学んだ.卒業後は,ニューヨーク州立大学(SUNY)Downstate Medical Centerの内科医,1967年に教授となり,腎疾患,特に電解質代謝の研究を行なう中で,細胞内の水の状態によってNMR信号が変化することを知り,NMRによる腫瘍の診断を着想した.

1971年にScience誌に発表したラットの腫瘍の緩和時定数が正常組織より長いことを示した論文[1]は,医学へのNMR応用の端緒となり,MRIの基礎原理を発明したLauterburの研究もこの論文が契機となった.1972年,これを臨床応用すべく全身NMR計測装置の特許を申請しているが,画像化を念頭においたものではなかった.臨床装置開発を目指して研究費をNIHに申請して却下されたが,当時のニクソン大統領に直訴の手紙を書き,NIHの予算を獲得することができた.1977年に,世界初の全身用NMR装置"Indomitable"*を完成した.1977年,初の体部画像**の撮影に成功したが,胸部横断像1枚の撮影に4時間45分を要した[2].

*Indomitable:不撓不屈の意.Damadianは,1971年の論文発表後,臨床用NMR装置の有用性を説いて回ったが,医学者にも技術者にも理解を得られず,技術的,経済的な艱難辛苦を経てようやく試作機を完成させたことを背景とした命名である[3].

**前年の1976年にMansfieldが撮影した指の画像が世界初のヒトのNMR画像であるが,躯幹部(共同研究者Minkoffの胸部)を撮影したのはDamadianが初であった.翌1978年にMansfieldも腹部の画像を発表している.

1978年に自らFONAR社を設立,1980年に世界初の商用MRI装置QED 80を発売したが,その後,大手メーカーが続々と高性能機を開発したため不成功に終わった.2003年,Lauterbur,Mansfieldのノーベル賞受賞に際しては新聞広告などで異論を唱えて話題を呼んだ

Damadianが医学を志したのは,乳癌を長く患って死んだ,幼い頃に特別可愛がられた祖母への思いがあった.もともとは内科医であったが,臨床医が救えるのはたかだか数千人だが,研究に成功すれば数百万人を救えると考えて研究者の道を選んだという.ノーベル賞受賞こそならなかったが,MRI普及の端緒となったDamadianの願いは成就したといえよう[3-5].

出典