ロリンズ William Herbert Rollins
経歴と業績
1852年にマサチューセッツ州のCharlestownに生まれ,若くしてBoston郊外に移った.地元の開業歯科医のもとで訓練を積んだ後,1873年にHarvard大学歯学部を卒業,その後歯科医を開業したが,1879年にはHarvard大学医学部も卒業している.しかしその後ももっぱら歯科医を生業とした.本来は機械工になりたかったが,金属アレルギーのためかなわず,手先の器用さを活かして歯科医を志したという.しかしその関心は歯科学,医学にとどまらず,物理学,天文学などにも幅広い興味を示し,その後のX線研究にもこれが大きく反映されている.
1896年にX線の発見が報告されると,Rollinsはまず歯科への応用を試み,cryptoscopeと称する透視装置を作っている.1898年以降は新しいX線管球や周辺装置の開発に力を注ぐと同時に,その実験を通してX線防護の重要性を度々説いている.初期には,X線火傷はX線そのものではなく電界よるものであると述べているが,その後いくつかの実験を通じてX線の生物学的作用はX線自体によるものであると結論している.特に重要なことは1901~2年,動物実験により,X線は皮膚障害だけでなく,個体死,胎児死亡となることを証明したことである.また1902年にはX線が白内障の原因になることを動物実験,臨床例で示している.これらの経験から,X線防護の必要性を繰返し強調し,特に(1)防護手袋や眼鏡を使用すること,(2)X線管球を金属などで囲うこと,(3)絞りを使って照射野を必要最小限に絞ることを推奨している.
このように1900年代前半までに,Rollinsは多くのX線障害を実証し,現在にも通用する防護の原則を確立していたといえる.しかし,その貴重な成果は当時の医学会にほとんど顧みられず,臨床の現場にも反映されなかった.その理由はいくつかある.Rollinsは,その研究成果を180篇の"Note on X-light" (X線覚書)として報告しているが(1896~1904),いずれも正式な論文ではなく研究ノート,技術ノートのような形式で,短いものは10行たらず,長いものでも2頁程度の短報である.またそのほとんどをBoston Medical and Surgical Journal およびElectrical Reviewに投稿している.前者は,現在でこそ世界に冠たるNew England Journal of Medicineの前身であるが,当時はBostonを中心とした発行部数の少ない地方誌であり,後者は技術系の雑誌なので医師の目には触れなかった.医学会にもほとんど姿を現わさず,非常に控えめな性格であったことも手伝って,当時医学界ではほとんどその名前も知られていなかった.事実,1907年に米国レントゲン学会が放射線防護をトピックとして開催された時も,Rollinsは参加しておらず,その発言集[1]にも名前が見当らない.Rollins自身も,1902年に「X線障害の可能性について良く知るようになったこの時期になっても,他の人々をしてX線管球を遮蔽材で被覆させることができないことは絶望的である」と嘆じている[2,3].
なお,William H. Rollinsと,同じく放射線医学のパイオニアであるFrancis H. Williamsは,それぞれの妻が姉妹という関係で,研究上も交流があった.いずれも初期からX線防護に深い関心をもち,この時代のパイオニアとしては珍しくX線障害を患うことなく天寿を全うしている点でも共通している.
出典
- 1. Trans Am Roentgen Ray Soc 95-109,1907
- 2. Kathren RL. Wiliam H. Rollins (1852-1929): X-ray protection pioneer. J Hist Med Allied Sci 19:287-195,1964
- 3. Linton O. Francis H. Williams and William H. Rollins. J Am Coll Radiol. 3:478-9,2006