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芳賀榮次郎 (はが えいじろう)flag-japan

経歴と業績

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芳賀榮次郎 (1864-1953)[1]

会津若松(現福島県)に生まれ,1887年東京帝国大学医学部を首席卒業.陸軍三等軍医に任官すると同時に大学院入学を命じられ,外科学を専攻,お雇い外国人医師のスクリバに師事した.1888年,大学院在学中,郷里で磐梯山が噴火した際は,同僚の三輪徳寛(後の千葉大学長)とともに率先して負傷者の救護にあたり,県知事,学長から表彰された[1,2].

1894年の日清戦争に従軍,野戦病院長として診療に当たり,帰国後「日清之役第三師団ニ於ケル銃創治験」と題する詳細な論文を著し,これはその後ドイツ語でも発表して高く評価された.1896年,2年間のドイツ駐在を命じられ,駐在医官として滞独中,ベルリン陸軍病院でX線撮影技術の指導を受け,帰国時に私費を投じてシーメンス社製X線装置一式を購入して日本に送った.帰国に当たってはシベリア横断を企て,ペテルスブルグから約4,000km離れたトムスクまで鉄道で,そこからネルチンスクまで約3,000kmを馬車で走破,さらに船と鉄道を乗り継いでウラジオストック経由で帰国した[1].

1898年,陸軍軍医学校に赴任,別送したX線装置一式の運用を植木第三郎軍医に託し,陸軍病院,東京帝国大学,永楽病院などの患者を撮影した.民間病院にX線装置が導入されていなかった当時,日本の放射線診療をリードした.1900年,北清事変(義和団の乱)では,大陸で負傷したフランス軍を初め多くの外国人将兵を広島陸軍病院に受入れて診療にあたった.1904年の日露戦争では,ドイツから持ち帰ったX線装置を野戦用装置として戦地に持ち込んで現地で撮影した[3,4].

陸軍軍医学校校長,朝鮮総督府医院長を歴任,1915年軍医総監に昇任,1921年に退役,外科医院を開業した.

出典