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レーナルト Phillip Eduard Anton von Lenard

経歴と業績

Portrait-Lenard

レーナルト(Phillip Eduard Anton von Lenard, 1862-1947)[1]

1862年,オーストリア帝国のハンガリー王国プレスブルグ(現スロバキア)に,ワイン商を営む両親のもとに生まれた.ドイツ,ハイデルベルク大学で物理学を学び,1888年からボン大学で周波数の単位に名前が残る有名な物理学者ヘルツ(Heinrich Hertz, 1857-1894)の助手として,ヘルツが行なっていた陰極線の研究を継承した. レーナルトは陰極線管に工夫して,陽極側に薄いアルミ箔を貼った小窓を設けることにより(レーナルト管),陰極線を陰極線管外に取りだして実験することを可能とし,そのさまざまな性質を明らかにした.陰極線の研究では後発だったレントゲンは,レーナルトに手紙を書いてレーナルト管を所望し,レーナルトは技術的なアドバイスとともにこれを提供している.

1895年にレントゲンがX線を発見すると,レントゲンに祝辞を送り,レントゲンも彼の業績を讃えるなどしばらくは良好な関係にあった.しかし1901年,レントゲンの第1回ノーベル物理学賞授賞*が決まると自分が共同受賞しなかったことに憤慨し,レントゲンを激しく誹謗中傷するようになった.後年,「X線の産みの親は自分だ.産婆が赤ん坊の母親でないのと同じくレントゲンはX線の発見者ではない.私がいなければレントゲンの名前が世に出ることはなかった」という発言を残している[2].レーナルト自身も,翌年の第2回ノーベル物理学賞を受賞したが,それでも怒りは収まらなかった.

*第1回ノーベル物理学賞選考にあたっては,レーナルトの名前も挙がっており共同授章も提案された.選考委員会の投票結果は,19票中,レントゲン12票,レーナルト1票,両者共同案5票,ケルビン1票で,委員会は共同授賞を提案したが,最終的には「最も優れた研究者に」というノーベルの遺言を尊重してレントゲンの単独受賞となった.なおレントゲン自身も選考委員の1人であったが,ケルビンに投票した.

また,レーナルトは陰極線は電磁波であるとしており,1896年にイギリスに招かれてキャベンディッシュ研究所の物理学者トムソン(Joseph John Thomson, 1856-1940)に陰極線の実験を供覧したが,翌1897年,トムソンは一連の実験で陰極線が負の電荷をもつ粒子(=電子)であることを証明した.さらにトムソンとレーナルトはともに光電効果を研究しておりレーナルトが先行していたが,トムソンの論文発表に際して自らの業績が正当に引用されていないことにレーナルトは不満を抱いた.光電効果の理論を最終的に証明したのは,アインシュタイン(Albert Einstein, 1879-1955)であった.アインシュタインがこの光電効果解明の業績に対して1922年,第22回ノーベル物理学賞を受賞した際,レーナルトは公式に異議を申し立てたが却下された.

このような経緯から,レーナルトは自らの,そしてドイツの業績が他国(特にイギリス)に奪われていると妄信し,またこれに反ユダヤ主義,国家主義的思想が加わり,純粋なドイツ人科学者だけによる「ドイツ物理学」(Deutsche Physik)を唱えて,アインシュタイン,キュリー,(ドイツ人ではあったが)レントゲンらの業績を無視した教科書まで出版した.ヒトラー政権では科学分野の顧問として要職を占め,多くの優秀なユダヤ人科学者を追放したが,その多くがアメリカに渡ってマンハッタン計画に参加し原子爆弾の開発に成功した一方で,ドイツ国内の科学技術の発展は停滞してドイツ敗戦の一因ともなった.

第二次世界大戦終戦時はハイデルベルク大学名誉教授の地位にあり,近郊に逃亡していたところを連合国に捕らえられたが,高齢を理由に罪を問われることなく,翌年病没した.

出典