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デサウエル Friedrich Dessauer

経歴と業績

デサウエル (Friedlich Dessauer, 1881-1963) [5]

ドイツのAschaffenburgに生まれた.父はAschaffenburg製紙工場の創設者,経営者であった.1896年,レントゲンのX線発見の報に触れた時ははまだギムナジウムの学生であったが,X線に強い興味をもって自ら実験を行った.その研究成果を指導教師がレントゲンに送ったところ,研究を続けるようにと言う励ましの返信があったという[1].ダルムシュタット工科大学,ミュンヘン大学に学んだが,1901年,父の死を機に大学をやめ,地元でレントゲン機器の製造販売を手がける会社ELA (Elektrotechnische Laboratorium Aschaffenburg)を設立,これは1907年にはVEIFA Werke (Vereinigte Electrotechnische Institute Frankfurrt-Aschaffenburg)となり,当時の医用電気機器,X線機器の主要メーカーの一つであった.

1904年頃から,深部X線照射理論の研究を開始し,均一照射,硬X線,フィルターにより,皮膚障害を来たすことなく深部病変に照射する方法を確立した.このほかにも,立体撮影,高速撮影によるシネ撮影など様々な技術を開発した.1917年,X線撮影用の高圧電源装置の研究によるフランクフルト大学で学位を取得,第一次世界大戦後はビジネスを離れて研究者として歩んだ.1920年にフランクフルト大学の教授となり,1921年に大学は医用物理学研究所(Institut für Physikalische Grundlagen der Medizin)を設立してDessauerを所長に迎えた(1937年にMax Planck Institute of Biophysicsとなった).この頃発表した等量線図は,Dessauerチャートとして広く利用された[1,2].

Dessauerはそれ以前から,科学技術と文明の関係など,哲学,倫理学にも深い関心を寄せ,その方面の著作も多い[3,4].また自分の会社の従業員の労働問題などから政治的関心も高く,カトリック系政党のドイツ中央党(Zentrumpartei)の当院として活動し,1924年には国会議員となった.しかし1933年に政権についたナチ党政権を批判したため横領の疑いで投獄された.裁判の結果無罪になったが大学での活動を禁じられ,また自宅が襲撃されるなどの事件もあったため,1934年一家とともにトルコに移住,イスタンブール大学教授となった.新しい放射線治療施設の設立などにたずさわったが研究生活は思うにまかせず,1937年,スイスフリブール大学に招かれた[1,2].この間にドイツ国籍は剥奪され,国内の財産も没収されたが,1949年にドイツ国籍が復活,1950年にフランクフルトに戻り,その後は生物物理学, 哲学を講じた.

1914年頃から全身の放射線皮膚障害のため治療を繰り返していたが,その後手を切断,1963年に皮膚癌のため死亡した.

出典