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シューラー  Arthur Schüllerflag-austria-hungary

経歴と業績

シューラー(Arthur Schüller, 1874-1957)[2]

1874年,ハンガリー=オーストリア帝国,ウィーン近郊のBrünn (現チェコ共和国Brno)で,耳鼻咽喉科医の父のもとに生まれた.17歳のとき,医学を学ぶためにウィーンに出たが,それは奇しくも1895年12月28日,レントゲンがX線発見の論文を学会に提出したその日であった.1899年にウィーン大学を最優秀の成績で卒業し,神経精神医学を専攻した.指導者は神経梅毒のマラリア発熱療法でノーベル賞を受賞したJulius Wagner-Jaureggであったが,Jaureggは当時萌芽期にあった放射線医学にも理解があり,Schüllerをウィーン総合病院放射線科のGuido Holzknechtのもとに学ばせた.1905年の最初の著書 Schädelbasis im Rötngenbilde (頭蓋底のX線検査)以来,その生涯に300編以上の教科書,論文を著わした.

Neuro-Röntgenologie (神経放射線)という言葉を初めて使い,神経放射線の父とされるが,当時はまだ単純X線撮影しかない時代であった.従って主な研究は頭蓋病変や,頭蓋内病変による頭蓋変化のX線所見に関するもので,錐体骨のSchüller撮影法,地図状頭蓋を呈するHand-Schüller-Christian病にその名前が残っている.1914年にウィーン大学の最年少教授となるが,まもなく第一次世界大戦が勃発し,1918年にオーストリアは敗戦して社会経済は疲弊した.しかし戦中戦後を通じてSchüllerは活発に研究を続けると同時に,自宅を開放して勉強会を開くなど熱心に後進の教育にあたった.1938年,ナチのオーストリア侵攻に伴いユダヤ人のSchüllerはイギリスに逃避したが,すぐに第二次世界大戦が始まり,翌年にはオーストラリアに移住した.オーストリアでも研究活動を続け,かつての教え子Ziedses des Plantesが会長をつとめた1949年,第2回Symposium Neuroradiologicumへの招待を謝絶してかわりに郵送した原稿が最後の論文となった[1,2].

出典