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グルッベ  Émile Herman Grubbéflag

経歴と業績

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グルッベ(Émile Herman Grubbé, 1875-1960)[4]

1875年アメリカのシカゴに生まれた.1895年にシカゴのHahneman Medical Collegeに入学.発見直後のX線に興味をもち,在学中から研究室を構えて実験を行なっていた.自らX線管球の試験の際に皮膚炎にかかったことから,X線が治療に使えることを思いつき,1896年1月28日に55歳女性の再発乳癌,その翌日に80歳男性の頭頸部の尋常性狼瘡に対して,いずれも医師からの紹介を得てX線照射したが,さしたる成果は得られなかったいう.1898年に卒業後は,多くの放射線治療を手がけ,学会の要職をつとめた.

1933年の論文[1]およびその後の回顧録[2]では,前述の2例の経験を引いて,自分は世界で初めてX線皮膚炎を経験し,それにヒントを得て世界初の放射線治療を試みた人間であると主張し,加えてその後のラジウム,α線,β線などの治療のパイオニアでもあると述べている.そして「これまで長く生きて,自分が育てた我が子が確固たる成熟したものとなったことを見てきたが,晩年を迎えてはX線治療が人類の病気の緩和にさらなる役割を果たすことを願うものである」と自分が放射線治療の祖であるかのように述べている.しかし,当時からその信憑性には疑問が投げかけられていた.

1960年の死に際して,相当の資産をシカゴ大学に遺贈するにあたって自らの伝記の刊行を条件とした.このため当時の大学病院放射線部長Paul Hodgesが止むなくこれを引き受けたが,その調査の過程で,Grubbéのさまざまな言説は根拠を欠き,また個人的にも非常に問題の多い人間であることが明るみに出た.完成した伝記にはこの辺りのことはぼかして書かれているが,それでも著者Hodgesの憤懣が見て取れる内容である[3].Grubbéは四肢の放射線障害のため100回もの手術を受けており,そのためもあって非常に気難しい,他人と相容れない人物であったらしい[4-6].

1896年に初めて治療したという2例についても,結局それを裏付ける記録がなく,真偽のほどは不明のままである.

出典