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イーストマン Geoge Eastmanflag

経歴と業績

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イーストマン(George Eastman, 1854-1932) 1917年撮影 [3]


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1888年,一般向けに発売したロールフィルムを使うカメラ.「あなたはボタンを押すだけ,あとは我々にお任せください」というコピーで人気を博した.

1854年,ニューヨーク州Uticaの農家に生まれ,その後Rochesterに移った.8歳で父が病死,14歳で学業を中断して保険会社や銀行の事務員として働いて生計を支えた.24歳の時,銀行の同僚とカリブへの休暇旅行を計画した際,同僚が旅行を写真におさめることを提案した.当時の湿式写真装置一式を購入したイーストマンは,結局旅行には行かなかったが,これを機に写真に興味をもった.湿式写真は,撮影直前に液状のコロジオンをガラスに塗布してそれが乾燥する前に撮影,現像する必要があり,装置も大がかりなものが必要だった.当時既にイギリスのMaddoxがコロジオンのかわりにゼラチンを使う写真乾板を発明していたが,1枚ずつガラスにゼラチンと乳剤を塗布する手間が必要であった.イーストマンはガラス板に乳剤を機械的に塗布して量産する装置を作り,1880年,誰でも買ってすぐ使える箱入り乾板の販売を開始した.1881年,Eastman Dry Plate Companyを創業,さらに1888年には薄いロールフィルムを開発した.そしてロールフィルムを装填した小型カメラを販売し,「あなたはボタンを押すだけ,あとは我々にお任せください」というコピーで,購入者は撮影後にカメラごと会社に郵送すると現像した写真と新しいフィルムを装填したカメラが返送されてくるシステムを作って大成功を収め,写真は一般大衆に広く普及することになった.同年,Kodakの商標を取得し,1892年にはEastman Kodak Companyとなった.

1895年,レントゲンのX線発見以後,Kodak社はX線乾板,X線フィルムの開発にも中心的役割を果たし,その後も世界のトップメーカーとして医用画像技術を牽引し続けた.Eastman自身は1925年に経営から引退したが,現役時代から精力的に行なっていた慈善事業にさらに傾注し,生涯を通じて主に教育施設,医療施設に総額1億ドルとも言われる莫大な寄付を行なった.自分が十分な教育を受けられなかったこともあり,教育こそが進歩の源であるという信念のもと,Rochester大学,MITなど高等教育機関を集中的に支援した.晩年は脊柱管狭窄症の痛みに苦しみ1932年,自殺を遂げた.メモには「友よ,仕事は終えた.どうして待つ必要があろうか」と書かれていた[1,2].

なおKodak社はその後も世界最大の写真関連製品メーカーとして成長を続けたが,2012年,デジタル化の波に押されて倒産.翌年,印刷を中心とする小規模な業務に限定して再上場して現在に至っている.

出典