ヘヴェシー Georg Charles de Hevesy
経歴と業績
1885年,ハンガリーのブタペストの裕福な家庭に生れ,1908年,フライブルク大学で物理学の博士号を得た.1911年,イギリスのマンチェスター大学でRutherfordの下に学んだ際,ラジウムD(210Pb)を非放射性鉛と分離するテーマを与えられ,これに2年間取り組んだが失敗に終わった.Hevesyはこのことから,ラジウムDが微量物質の検出,定量に使えると考え,radioindicator (放射性指示薬)の概念が誕生した.
この時期,下宿先の女主人が古い食材を使い回して食事を用意していることに抗議し,毎日新しい材料を使って料理していると反論する女主人に対し,食べ残りの肉に微量の放射性物質を仕込み,その数日後,女主人の目前で検電器の針が振れることを示して使い回しの証拠を突きつけた,というエピソードが残っている[2].
1913年,ウィーンラジウム研究所に移ると,ここでFritz Panethが同じ研究をしていることを知り,ラジウムDが鉛と分離できないこと,そのradioindicatorとしての可能性について共著論文を著した[3,4].1923年,化学分析の手段であったradioindicatorを植物に応用し,ソラマメの鉛吸収,代謝を計測し,放射性物質の生体トレーサーとして世界初の利用であった[5].1932年にUreyが安定同位体 2H(重水素)を発見すると,その2年後には自ら重水を飲用して尿中排泄を計測[6],1934年にJoliot Curieらが人工放射性物質32Pの生成に成功すると,ただちにこれを利用してラットのリン代謝を測定[7],その後サイクロトロンから24Na,42Kなどが供給されるようになると早速これを応用するなど,常に同位体のトレーサーとしての可能性を追求しつづけ,1943年,その業績に対してノーベル化学賞を受賞した.1922年に,新元素ハフニウム(Hf)をDirk Costerとともに発見したことでも知られる[2].
出典
- 1. Public domain
- 2. Myers WG. Georg Charles de Hevesy: The Father of Nuclear Medicine. J Nucl Med 20:590-594,1979
- 3. Hevesy G, Paneth F. Die Löslichkeit des Blesulfids und Bleichromats. Z anorg Chem 82:323-328,1913
- 4. Paneth F, Hevesy G. Über Radioelemente als Indikatoren in der analytischen Chemie. Monatsh Chem 34:1401-7,1913
- 5. Hevesy G. The absorption and translocation of lead by plants - A contribution to the application of the method of radioactive indicators in the investigation of the change of substance in plants. Biochem J. 17:439-445,1923
- 6. Hevesy G, Hofer E. Elimination of water from human body. Nature134:879,1934
- 7. Chievitz O, Hevesy G. Radioactive indicators in the study of phophorus metabolism in rats. Nature 136:754-5,1935