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ホルツクネヒト  Guido Holzknecht

経歴と業績

ホルツクネヒト (Guido Holzknecht, 1872-1931)[4]

1872年,オーストリア=ハンガリー帝国ウィーンに生まれた.1896年1月,ウィーン大学では発見が報じられたばかりのX線の臨床応用が直ちに開始された.医学部卒業直後でこの任にあたったGustav Kaiser医師の指導の下,当時医学生だったHolzknechtもこれに参加し,それまで精神科志望であったが放射線医学の道に進むことになった.卒業後の1899年,Hermann Nothnagel教授の下で研究を開始,同年10月には気管支狭窄に関する初の論文を著わした.1901年,ウィーン総合病院皮膚科梅毒部門(Eduard Lang教授)の医師となったが同年に著わしたモノグラフ「胸部疾患のレントゲン診断」[1]は,現在もなお引用される胸部X線診断の基本所見が網羅されており,聴診器を発明して聴診所見を集大成した Laënnec の「間接聴診法」にも匹敵する名著とされる.Holzknecht腔(心後腔),Holzknecht徴候(気管支異物による縦隔偏位)として知られる所見もここに記載されている.1901年,Kaiserの後任としてウィーン総合病院放射線科部長に就任,その後生涯この職にあった.

1902年,Holzknechtは同僚のKienböckとともに,ウィーン大学医学部内における放射線医学部門の独立を求める建白書を教授会に提出した.反対意見も多かったが,翌1903年にこれが認められ,1904年には2名とも講師に任命された.1912年,Holzknechtは教授となり,翌年に中央レントゲン研究所の所長となった.

1902年に発表した線量計 chromoradiometerは,化学物質の変色を利用した初の線量計で,皮膚紅斑線量の1/3を1単位とする「Holzknecht単位」 は,後に物理学的な単位R(レントゲン)が登場するまで約30年にわたって放射線治療に広く用いられた.以後,さまざまな疾患の放射線治療に取り組み,1922年に著した125疾患に対する治療線量,照射方法を詳述した24頁の冊子は,各国語に翻訳されてその後長く放射線治療の指針となった[2].1900年代後半からはX線透視を駆使した消化管X線診断の研究を進め,症状群(Symptom-Komplex)による独自の胃疾患の診断法を確立した.このようにHolzknechtの業績は放射線医学のあらゆる領域にわたり,同僚のKienböckとともに放射線診療の大系を確立した.その論文は250編にのぼり,そしてウィーン総合病院を世界最先端の放射線部門に育て上げ,国内はもとより世界各国から訪れる臨床医,研究者の教育に尽力した.日本からも藤浪剛一,浦野多門治,小池才一らが留学している.

Holzknechtの最大の業績の一つはX線透視の改良,応用にあったが,当時の無防備な装置で膨大な透視検査を行なったことが災いし,1899年の時点ですでに放射線皮膚炎で休養を余儀なくされていたが,1905年に皮膚癌と診断されて以後64回の手術を行ない,全手指と右前腕を切断,晩年は義手を装用して研究を続けた.Hamburgの放射線殉職者慰霊碑にその名前が刻まれている[3-5].

出典